2017.4.4 1980年4月
橋本は学校の前に立って、陰鬱な校舎を見上げていた。
出席日数を上手く計算し、最低限の登校でやっと3年まで進級した。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。出席も単位も卒業も、橋本の頭にはなかった。
初島が殴られていた、あの日。
ここ1ヶ月以上、橋本の頭からその映像が離れなかった。初島の身に何が起きているのかはわかったが、どうしてそんなことになっているのか全く理解できなかった。
あの男から逃げろ。
本人に会ったら言うつもりだった。
「おはよ〜」
新道がニコニコしながら近づいてきた。
「おはよ」
橋本は校舎を見上げたまま言った。新道とはなんとなく顔を合わせずらい。といっても、毎日のように古書店に来るので、会ってはいたのだが。
「俺も3年になれた!」
新道は嬉しそうに言った。
「先輩達もいなくなったし、もう絡まれる心配もない!」
しかし、後輩の目は好奇に満ちている。橋本の横を通っていく下級生達はみな、髪の色を見てぎょっとした顔をする。声を上げて逃げていく女子までいる。
「お前は能天気すぎる」
橋本はつぶやきながら校舎に入っていった。新道とは目を合わせたくなかった。純真の象徴のような人間に、自分の目の奥にあるものを見破られたくなかった。
「あ、おはよ〜」
教室には根岸菜穂がいて、その隣に、初島が立っていた。いつもと変わらない様子で。
橋本はその姿を見て立ち止まった。否応なくあの姿が浮かぶ。思わず目をそらした。クラスの人達の視線が気になった。みながこちらを見て嘲笑っている、そんな気がしてならなかった。
「始業式には一応来るわけね」
初島がいつものように言った。橋本は答えなかった。初島を直視できないので、教室の壁のあたりを向いていた。
「ちょっと!聞いてんの?」
初島が言った。橋本はその場を離れて自分の席に座った。周りの席の人達が一斉に自分を見てニヤけたような気がした。
「橋本、なんか変だよ最近」
新道が近づいてきて、橋本の机に手をついた。
「何かあったの?」
「何もねえって。同じことを何度も聞くなよ」
最近、新道は会うたびに『何かあったの?』と聞いてくる。何かがおかしいと気づいているらしい。しかし、橋本はあのことを新道にだけは知らせたくなかった。こいつは純真すぎる。あんなことを知ったらショック死するかもしれない。
自分だって死にそうだ。
教室の隅に集まった女子達が、橋本と初島を交互に見てヒソヒソ話をして笑っている。
こいつらは、橋本は思った。俺と初島があんなことをしていると思っているんだろうな。初島が言いふらしたとおりに。
なぜあんな嘘をつくのか。
橋本はやっと理解した。でも、わからなかった。いくら考えてもわからない。なぜそんなおぞましいことになっているのか。なぜ初島は自分と不適切なことをしていると言いふらすのか。その方がましだと思っているからか。
わからない。
全くわからない。
「ねえ、どうしたのよ」
初島が近寄ってきて尋ねた。線が細い。改めて体つきを見ると驚くほど痩せている。手足など、触ったら折れてしまいそうなくらい細い。
やめろ、もう平気なふりをするのはやめろ。
あの男から離れろ。
橋本はそう言いたかった。しかし、言えなかった。初島の顔を直視できない。誰とも目を合わせたくない。自分だけが汚れているような気がした。立ち上がり、教室から出ていった。
「おい、どこへ行く」
菅谷が追いかけてきた。新道も後からついてきた。
「帰る」
橋本は歩くのをやめずに前を向いたまま言った。
「えっ?まだ始業式始まってもいないのに」
新道が困った様子で言った。
「どうでもいいんだよそんなのは」
橋本は校舎を出た。2人ともそこまではついてこなかった。いつもの気まぐれだと思ったのだろう。
チャイムの音が遠く聞こえた。世の中は時間どおり秩序立って動いている。
いつだって自分は、そこに入れなかった。
そして今や、完全に逸脱してしまった。
そう感じながら、橋本は力ない足取りで家路についた。春が近づいて景色も色めいていたが、橋本の目にはそんなものは映っていなかった。




