2017.3.28 火曜日 研究所
結局バカと一緒にゲームで完徹してしまいました。
自分が嫌になります。
これから寝ます。おやすみなさい。
朝起きると、早紀から昨日起きたことを知らせる文章がたくさん来ていた。久方はベッドの中でその文言を眺め、早紀が遠くに行っていることを思い出し、また眠りにつこうとした。しかし、ちょうど6時になり、隣の結城がショパンのピアノソナタ3番の第4楽章を弾き始めた。朝には聴きなくない曲調だ。久方はいつもどおり、うめきながらベッドを飛び出し、着替えを持って1階に逃げた。
サキ君がいない。
朝食の時、久方が暗い目でつぶやいた。
同じセリフをもう一度言ってみろ。
裏に穴掘って埋めてやるぞ。
結城が久方をにらみながらトーストをつまんだ。
そしたら新種の木が生えてくるから、植物学者に知らせるといいよ。
やだよ学者なんてめんどくさい。
それより、新橋が彼氏から離れてるうちに、
LINEで自己アピールしたらどうだ?
今朝来てたよ。父親と徹夜でゲームしてたって。
ガキくせぇ。
結城は鼻で笑った。久方は無言で食事を続けた。
食事が終わり、ピアノ狂いがベートーベン三昧を始めた。久方はパソコンに向かっていたのだが、ふと、あのモノクロの森のことを思い出した。
今なら行けるかもしれない。
久方は目を閉じた。異界への扉が開く気配がしたのだ。しばらくすると、体の感覚がなくなった。
思ったとおりに、久方はモノクロの森に降り立っていた。
やっぱりそうだ。ここは。
久方は前に進み始めた。あの人もここにいるかもしれない。
あいかわらずここには人の気配も、生物の気配もない。ただ、木々や草があって、その間に道があるだけだ。どこにもつながっていない道。ただ進むためだけにあるような道が。
ひたすら進んでいくと、細い棒のようなものが立っているのが見えた。よく見るとそれは人で、さらに近づくと、
また来てしまったんですね。
それは、モノクロの新道先生だった。
なぜここにいるんですか?
久方は尋ねた。
それはこちらのセリフです。
ここは生者が来るところでは──
ここは、僕が作った世界ですよ。
久方は新道先生の言葉を遮った。
なんですって?
僕が自分で創り出した世界です。
久方は断固とした口調で言った。
最近わかりました。僕が、あの人のたましいに会うために、あの人のために創ってしまった世界なんです。
それから、こう尋ねた。
なのに、あなたや、高谷君までここに入り込めている。
それはなぜですか?
新道先生は答えなかったが、とまどった様子を見せた。何か事情を知っているが、話せない。そういう風に久方には見えた。
理解できないかもしれないけど、そうなんです。
久方は話し続けた。
ここは死の世界だ。でも、元からあったものじゃない。
消えたいと思っている僕が創り出した世界です。
あの人は僕を消そうとした。
それは間違った行いだった。
でも子供は、
無意識に親の願いを叶えたがるものでしょう?
僕は、あの人のために、
母さんのために、自分を殺したかった。
そういうことなんです。
それはいけませんよ。
新道先生が言った。
絶対にいけません。
わかってます。
久方は薄く微笑んだ。
いや、『頭では』わかってると言うべきかな。みんなが僕を大切にして心配してくれてるのは知ってる。親がどんな人間だろうと、子供には独自の人生を歩む権利がある──それは、知ってます。でも、わからない。結局この体は母親が産んだものだから、母親の願いからは逃れ難いのかもしれない。
理由はわからない。でも、僕はどうしても、自分を消したいと思うことをやめることができない。
あなたは元の世界に戻るべきです。今すぐに。
新道先生が厳しい表情で言った。それから、あたりを不安げに見回した。あの人が来ないか警戒しているのだろう。
新道先生。
久方は静かに言った。
あなたはここに来る必要はありません。
高谷君についていてあげてください。
久方がそう言うと、なんと、新道先生は消えてしまった。
あなたの言ったとおりだった。
久方はつぶやいた。
僕には母さんと同じ力がある。
もう、ここには僕しか来れない。
久方はモノクロの森にたたずんでいた。もう、ずっとここで隠れて過ごそうかとすら思った。数少ない楽しかった思い出だけを大切にして。
サキ君が来た頃は幸せだったなあ。
久方はつぶやいた。あの頃はまだ結城も里帰りで不在、学校の子達もいなかった。もちろん彼氏だっていなかった!早紀は自分だけのものだった。少なくとも久方にはそう思えた。早紀本人がどう思っていたかは別として。
久方はモノクロの森に寝そべった。背中には何の感触もない。せめて草の触り心地と匂いくらいあればいいのに、とうっかり思った、その時だった。
ズドーン!
ピアノを乱暴に叩く音で、久方は目を覚ました。音の大きさに驚いて、手と内臓がビクビクと震えた。
ピアノ狂いめ、またうまくいかなくてキレたな?
人がせっかく別世界に逃げれた時に!
あたりは静まり、2階から降りてくる足音がしたが、そのまま廊下を通って外に出ていってしまった。車のエンジンをかける音がかすかに聞こえてきた。
久方はパソコンを見るのをやめて、ソファーに移動した。シュネーが先に丸まっていたので、背中を撫でた。猫の毛の柔らかい感触。
ああ、ほんとに戻ってきてしまった。
サキ君はいないのに。
スマホを見たが、結城から『出かける』と言ってきた以外は何もなかった。久方はソファーにもたれて、もう一度目を閉じた。しかし、もうあの森の入り口は見えなかった。
あいつ、危ない状態なんじゃねえかと思うんだよ。
夕方、カフェで話していたのは、久方ではなくおっさんの方だった。隣にはヨギナミがいて、カウンターの奥では高条が動画を見るふりをしながら、2人の様子をちらちらとうかがっていた。
所長、そんなにお母さんに会いたいんだ。
怖い人だってわかってるのに。
ヨギナミには理解できない考え方だった。自分を殺そうとしている人に近づくなんて。
新道にもどうにもできねえんじゃなあ。
おっさんは困った様子でコーヒーを飲んでいた。いつもよりペースが早い。松井マスターがおかわりのタイミングを狙って様子をうかがっている。
サキも急に帰っちゃったしね。
ヨギナミは言いながら高条を見た。何か言ってこないかと思ったのだが、高条はスマホを見ていて、話しかけてくる様子はない。
俺は結城のせいだと思うね。それか、奈々子か。
おっさんが言って、またコーヒーを飲んだ。
やっぱりサキって結城さんのこと好きなの?
ヨギナミは高条に聞こえないように小声で尋ねた。実際はばっちり聞こえていたのだが。
もう見るも情けないくらいにな。
おっさんも小声で答えた。
それが久方を傷つけるんだよ。
新橋はそこがわかってねえな。
久方さんはサキのこと好きだもんね。
それはヨギナミにとっては当たり前のことで、もはや尋ねるまでもなかった。しかし、後ろの高条が振り返って目をむいた。
あ〜もうそれはまわりにはバレバレだな!
おっさんは笑い、松井マスターにコーヒーのおかわりを頼んだ。それから、
今日、そういうわけで病院に行けなくてよ。悪いな。
と言った。
別に毎日行く必要ないんだよ?
ヨギナミは言った。本当は娘である自分が毎日行くべきなのでは、と後ろめたく思っていたのだが、実行に移す気にはなぜかなれなかった。なので、おっさんにも毎日は行ってほしくなかった。
俺にはあるんだよ。
あさみのためだけじゃなく、自分のために。
おっさんは寂しげに笑った。それから『春休み何してる?』とヨギナミに尋ねた。ヨギナミはバイト先に来たおもしろい客の話や、勉強の話をした。
後ろでは高条が早紀に『久方さんがサキのこと好きなの知ってる?』とLINEしていた。すぐに『ただの友達だって』という返事が来た。高条は振り返っていきなり、
サキは友達としか思ってませんよ。
とおっさんに向かって言った。おっさんとヨギナミは驚いて高条を見た。高条は気まずそうに席を立って店の奥に行ってしまい、おっさんとヨギナミもそこで会話をやめて、それぞれ自分がいるべき所に戻っていった。




