2017.3.22 水曜日 サキの日記
朝食の時にヨギナミがこんなことを言った。
私、おっさんが思ってるより強い人間だと思うんだけど、何が起きたかまだ教えてくれないの。
橋本がなぜ死んだのか教えてほしいと。そんなこと私も知らないし、修平も『ビルの最上階から落ちたんだよ』としか言わなかった。
春休みだ。水曜だけど音楽の授業がない!
そう思って開放感に浸っていたのに、杉浦はバカなので、
音楽を取ったメンバーでレコード鑑賞の会を開こうと思うのだがどうかな?松井カフェのお菓子と、僕が厳選したとびきりの音楽を──
自己陶酔の混じったふざけた案内をLINEしてきやがった。
出かけるから無理。
と即答した。朝食のすぐ後に来たので平岸家で杉浦の悪口言いまくってたら、なんとあかねが、
じゃあ、私とヨギナミが代わりに行くわ。
とニヤけ始めた。ヨギナミは一瞬嫌そうな顔をしたけど、杉浦なので断らなかった。修平は『あいつん家物が多すぎて息が詰まる』と言いながらも行くらしい。
私だけ欠席なの気まずいけど、杉浦に説教されるのは嫌なので、今日は研究所に行くことにした。勇気に『杉浦の家行ってみたら?面白いものが撮れるかもよ』と言ったら『行ってみる』と返事が来た。うまくかわしたと喜ぶべきか、彼氏が遠ざかっているのを悲しむべきか、なぜか私には、何の感情もわかない。
今日、結城さんに会った。久しぶりに。
所長がいなくて、代わりに結城さんが1階にいて、フジコ・ヘミングのCDをかけていた。テレビでアイドルを見ている時とは違って、すごく真剣な表情をしてる。じっと見てしまう。私がその表情の中に吸い込まれてしまいそう。
結城さんはしばらく、私が近くにいることに気がつかなかった。2曲くらい過ぎた頃に何を思ったのかCDを止めて、ふと、こちらを見た。
久方は病院に行ってるぞ。送ってやるって言ったのに『一人になりたい』って。
所長は一人でいるのが好きなんですよ。
そうかぁ?俺にはそうは見えないけど?
ちょっと皮肉っぽく笑った。まともに言葉を交わしたのはいつ以来だろう?思い出せない。だけど、
彼氏はどうした?うまくいってないとか?
せせら笑われたので『そんなことないですよ』と言っといたけど、たぶんうまくはいってない。勇気が今何をしているかなんて、私は興味がなかった。だって目の前に結城さんがいる。
奈々子がこの前言ってたんですよ。
『一度、大きな舞台で歌いたい』って。
それから佐加が勝手に手配してしまったことを話した。
それは奈々子じゃなくて、
お前が歌うはめになるかもしれないぞ。
結城さんは言った。無表情だった。
私は絶対歌いませんよ。本当は奈々子に身体貸すの嫌でたまらないんです。でもいつまでもいられても困るし。
俺はトッカータが聴きたくて出てきたのかと思ったけどな。
結城さんがそう言った。奇妙に弱々しい目で。一瞬、私が知ってる大人の結城さんではなく、別な人が現れたように見えた──90年代の、危ういことばかりしていた少年が。
奈々子のこと、好きだったんでしょ?
とうとう私は聞いてしまった。
そうかもしれない。
結城さんは言った。弱々しい顔のまま。
そうかもしれない?はっきりしませんね。
俺もよくわからない。今でも何が起きたのか理解してない。一つだけわかっているのは、俺も奈々子も、まだあのトッカータを見つけてないってことだ。それが見つかれば──。
何かが変わる?
結城さんは答えずに出ていった。階段を上がる音がした。それから、なぜかエリック・サティの『きみが欲しい』を弾き始めた。やめてほしい。こんなの、結城さんらしくない。もっと難解で超絶技巧みたいなイカレたの弾いててほしい。弱くなった所なんか見たくない。
やっぱり奈々子なんだ。
悔しかった。腹が立って、奈々子のために何かしようという気がなくなった。なにが『大きな舞台で歌いたい』だ。なんで私があんたのために人生を貸さなきゃいけないんだ。あんたのせいで──
ぐるぐる考えていたら、いつのまにかポット君がコーヒーを持ってきていた。なぜか2つあった。2杯とも飲んでから帰った。それから、結城さんが言ってたことと、私がムカついてることを所長やヨギナミや佐加に知らせまくった。みんなそこそこ同情してくれたけど、それでは気が済まなくて、松井カフェに行って3杯目のコーヒーを飲んだ。我ながら飲み過ぎだと思う。
勇気はまだ帰ってきていなかった。カフェで一人になれるの久しぶりだ。コーヒーとクッキーと、近くの席で客が食べてるカレーの匂い。昭和風の店内、古びた雰囲気が、私を落ち着かせてくれた。
やっぱり奈々子はなんとかしなきゃいけない。
それに、結城さんも。
最近、久方さんの幽霊さんがよく来るのよ。
ちょうど落ち着いた頃合いを見計らって、松井マスターが話しかけてきた。
何か変わったこと言ってましたか?
いえ、肝心なことになると口をつぐんじゃってね。
ヨギナミが言ってたとおりだった。1980年に何が起きたか、橋本は『言えない』を繰り返して話そうとしない。でも『何かが起きた』ことはほのめかしておいて教えてくれないなんて。まわりを翻弄したいのか?気になるじゃん。
橋本は何をしたら成仏するのだろう?ヨギナミのお母さんが死んだら?さらに未練が(幽霊も)増えそうで怖い。所長のことを心配しているんだろうか?もういい年の大人だし、自分で暮らせてるのに。修平は新道と仲よすぎて、そもそも離れたがっていないように見える。一番自立しなきゃいけないのは実はカッパなんじゃないか。あいつ一人になったら生きていけないんじゃないだろうか。今日も夕食の時に『先生と雪かきの話してた』とか『富士山登りたい』とかよくわかんないこと言ってたけど。
雪かきの季節もそろそろ終わるわあ。
平岸ママが嬉しそうに言った。そうだ。もうすぐ4月になっちゃう。春が来て、私は3年生になる。高校の3年。なんだか、子供時代のラストって感じだ。いや、私はもう子供じゃない。自分では大人のつもりだけど。
部屋に戻って結城さんのこととか、迫りくる3年生のことを考えてたら、勇気から『すげえ本の壁だった』と、杉浦家の、両側の壁が本棚になってる廊下の写真が送られてきた。
怖すぎる。地震来たらどうすんだって言ったら『その時はその時さ』まるで考えてない。こっちの人は地震の備えがなってないよ。あいつ防犯グッズはやたらに持ってるくせに、非常用の道具は懐中電灯と水しか用意してなくて──
防災に関する長文が次々と送られてきて怖かった。そういえば、私懐中電灯持ってないと思ってうっかりそう言ってしまった。
明日買いに行くぞ。
と言われてしまった。余計なこと言わなきゃよかった。『今日結城さんに会ったけどどう思う?』と聞いてみようかと思ったけど、もちろんそんなことはできなかった。また話はいつものあれに戻ってしまう。
私はどうしたらいいんだ。
別れるべき?やっぱ。




