2017.3.21 1980年
橋本は、初島医院の入口に立っていた。赤い髪はニット帽を深くかぶって隠していた。何のためにここに来たのかよくわかっていなかった。初島のことを探るため?それとも、自分の頭がおかしいということを証明するため?
まだ精神病や精神科の話が公にできない時代だった。人々がうつ病などを話題にするようになったのは、21世紀に入ってからだ。橋本が生きていた時代、精神科は、気軽に近寄れる場所ではなかった。
橋本はしばらく入口のまわりをうろうろした。誰も出てこないし、新しくやってくる人もいなかった。開いている時間のはずなのに、中から人の気配は一切しない。
人は精神を病むと、生きている気配も消えるものなのか。
と思っていたら、2階の窓で人が動くのが見えた。かと思うと、入口から看護婦らしきおばさんが出てきた。表情が険しい。
「何かご用ですか?」
「いや、あの」
橋本はうろたえた。
「友達に会いに来たんです。最近学校を休んでるから」
「院長の娘さんのこと?」
「そうです」
「なら、ここじゃなくて裏の家にお行きなさい。そこが院長の家ですから。今ご自宅で休憩していらっしゃるから、失礼のないようにね」
裏の家は、想像していたよりもはるかに古かった。戦後まもなくに建てられた色あせた一軒家で、まわりを囲う塀にもひび割れが目立った。そして、ここにも人の気配がない。
インターホンを押す。
返事はない。出かけているのだろうか。
戯れにドアノブに手をかけてみると、開いてしまった。
鍵をかけ忘れたのか?
橋本はそっと中に入った。悪いことをしているような気がしたが、好奇心が勝った。玄関は暗かったが、靴が2つあった。初島のスニーカーと、男物の革靴が。つまり2人ここにいるということだ。なぜインターホンに出ないのだろう。訪問販売を警戒しているのか。
そっと、足音を立てずに廊下を歩いた。すると、上から人の声がした。普通の声ではない。かなりきつい怒鳴り声だ。『俺の言うことが聞けないのか!?』と言っているように聞こえた。ガタンという、何かにぶつかるような音も。
嫌な予感がした。
橋本は早足で、古くて傾斜の急な階段を、足音を立てないようにのぼった。すると、半開きのドアがあって、そこから光がもれていた。怒鳴り声もそこから聞こえてくるようだ。
見ないで、帰ったほうがいい。
橋本の頭の中で何かが叫んだ。しかし、橋本は戻らなかった。そっとドアに近づき、中をのぞいた。
男が、初島を殴っていた。
しかも、全く手加減せず、よくわからないことを怒鳴り散らしながら、殴ったり蹴ったりを繰り返していた。
「お父さん、やめて」
初島が言った。
「やめろ!俺はお前の父親じゃない。何度言ったらわかる?お前は、空中から俺が創り出した子だ」
男──初島医師は、初島の胸ぐらをつかんでこう言った。
「自分で創り出したものをどうしようが、俺の勝手だ」
橋本は、ショックのあまり後ろにふらふらと下がり、廊下の壁にぶつかった。
「誰だ!?」
初島医師が声を荒げた。その瞬間、橋本は何もかも忘れて、全力で階段を駆け下り、家の外に飛び出した。そして自分の家まで走り、部屋に飛び込んだ。
──今のは何だ!?
橋本は頭が混乱していた。混乱どころの騒ぎではなかった。全身の血が逆流して、言うことを聞かなくなったかのようだった。
どういうことだ?何が起きてる?
「おい、どうしたんだ」
息子の慌てた様子を見て、店主がやってきた。
「何でもねえよ」
橋本は父親と目が合わせられなかった。
「さっき新道が来てたぞ。お前を心配してるぞ」
「わかったから出てってくれ。一人になりたい」
店主は出ていった。
橋本はうめきながら部屋の中を歩き回り、一度本を手に取ったが、文字が全く頭に入ってこないので、投げ捨ててまた外に出ていった。慌てていたのでニット帽を忘れてしまい、通り過ぎる人が赤い髪を見てけげんな顔をしたり、あからさまに避けていったりした。しかし橋本に、そんなまわりを気にしている余裕はなかった。
どうする?
新道?いや、あいつには話せない。
根岸も駄目だ。
橋本はやみくもに街を歩き回った。そしてまた知らないおじさんに『なんだその髪の色は!?』とつかみかかられ、逃げようとして雪道で転び、数発殴られてからやっと開放された。
この世は恐ろしい場所だ。
いや、そんなことは、
とっくの昔に知っていたはずなのに。
橋本はよろよろ歩きながら、自分の知っていた世界が全て変わってしまったのを感じていた。今までだってこの世にはろくなことが起きていなかったのに──さっき見たものが、決定打になった。
初島は、ただの嘘つきではなかった。
『私、お父さんの子供じゃないの』は本当だったのだ。さっき初島医師が自分でそう言っていたではないか。しかし、『自分で創り出した』?信じられない。初島が持っているような力を、あの男も持っているということか?
とにかく、初島が父親(だと思っている人)に暴力を振るわれているのは間違いない。
あいつはただの嘘つきではなかった。
父親の暴力のせいでおかしくなっているだけだった。
こんなことは知りたくなかった。
橋本はまたうめきながら頭を振った。今見たことを忘れてしまいたい。でももう手遅れだ。脳裏に焼き付いてしまった。
こんなことを知ってしまったからには、
どうにかしなければならない。




