2017.3.19 1986年3月 新道先生のプロポーズ
1986年のある夕方。
もう『先生』になっていた新道は、自宅アパートのドアの前に立っていた。ポケットに入れた手に指輪の入ったケースが当たる。菅谷に勧められて(というより、強要されたと言ったほうが正しい)給料3ヶ月分をつぎ込んだのだ。新道にとって、その額を貯めるのは容易なことではなかった。しかし、これから行おうとしていることに比べれば、そんなことは大したことではなかった。
アパートの中には、菜穂がいる。料理をしながら機嫌よくフンフンと鼻歌を歌っているのが聞こえる(若干焦げ臭いのが気になるが……)。ナホちゃんこと根岸菜穂は、学生の頃からここに通ってきていた。もう付き合いは6年以上になる。今日こそ、しっかりとけじめをつけなければならない。
新道は深く息を吸い、永遠のように長い息を吐いて、『よし』と自分に言い聞かせながら、ドアの鍵を開けた。
「あ、シンちゃん。お帰りなさ〜い」
花柄のエプロンをつけた菜穂が、お玉片手に微笑んだ。
「ナホちゃん」
新道は真剣に言った。
「ちょっといいですか。今日は大切なお話があります」
「なあに、改まっちゃって……あっ!やだ!サンマが焦げてる!!」
菜穂は慌てて魚焼き器から黒焦げのサンマを取り出した。
「ごめ〜んまたやっちゃった!」
「いや、別にいいから、とにかく座ってくれないかな」
「中身はまだ無事かも。焦げた部分を取れば」
「いや、いいから」
サンマを気にする菜穂を、新道は奥へと引っ張っていった。2人は古い畳の上に向かい合って座った。
「私が教員になって、もうすぐ1年になります」
「そうねえ」
「ナホちゃんがここに通うようになってからもずいぶん経ちます」
「そうねえ。大学のお友達にはよくからかわれたものよね。『お前もう女房がいるのかよ!』なんて言ってね」
「そうです。私達の仲はもう周知の事実ですし、そろそろけじめをつけなくてはなりません」
「どういう意味?」
菜穂はつぶらな瞳で新道をじっと見つめた。
「いや、あの、だからね」
新道はその視線に照れてしまい、言うことを忘れてしまった。
「もう一緒に暮らしているようなものだし」
「そうねえ」
「朝起きたら隣に寝ててびっくりすることもある」
「起きた瞬間に会いたくなるんですもの」
「ならいっそもう、その、ほら」
「なあに?さっきから言いよどんじゃって」
「いっそ──」
新道はやっと言うべきことを思い出した。
「お、俺と、け、結婚、しないか?」
なんとも情けない声になってしまったが、とにかく言った。そして思い出したように(実際忘れかけていたのだが)指輪の入ったケースを取り出し、開けて中身を差し出した。
菜穂は大きな目をしてその指輪をじっと見た。
それから、
「シンちゃん」
ちょっとすまなさそうな顔をしてつぶやいた。あれ?と新道は思った。もしかして嬉しくないのだろうか?
「シンちゃん──」
菜穂はもう一度つぶやいた。みるみる表情が崩れた。
「シンちゃあん」
菜穂の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「えっ?」
新道は驚いた。
「シンちゃあああん!」
ナホはまた叫び、今度は新道に抱きついた!
「こっ、これはっ」
新道は戸惑いながらも菜穂をしっかり抱きとめた。
「あのっ、これは、OKということでいいんだよね?」
「シンちゃあああん!」
菜穂は新道に抱きついたまま泣きじゃくっていた。
「ナホちゃん?」
「シンちゃああん!」
「ナホちゃん!」
「シンちゃああん!」
「ナホちゃああん!」
2人のバカみたいな、いや、情熱的な声がアパートに響いた。
「おい!うるせえぞ!何の騒ぎだ!?」
アパートの大家が怒鳴りながらドアを叩いてきた。
「俺達、結婚するんです!」
新道が叫んだ。
「シンちゃああん!」
菜穂も叫んだ。
「何ッ!?それを早く言え!」
大家は祝い酒を取りに自分の部屋に戻った。他の部屋の住人もなんだなんだと集まってきた。みんな新道と菜穂を知っていて仲も良かったので、それぞれが貧しくも何かとお祝いを持ってきた。新道の部屋で祝いの飲み会が始まり、それは朝まで続いた。その間も興奮がおさまらない菜穂は、ずっと「シンちゃああん!」と叫び続けていた。嬉しくてたまらないのに、他にそれを表す言葉が思いつかなかったのだ。




