2017.3.16 木曜日 研究所
天井からガーシュインが聴こえる。これは保坂だ。ピアノ狂いほどの技術はないが、弾き方が優しい。こちらの方がまともな感性を持っていそうだ。
久方創はソファーに寝そべっていた。パソコンの仕事はもう終わってしまった。やることがないが、なぜか全身が疲れていて外に出る気がしない。特に疲れることをした記憶はないし、橋本だって病院とカフェにしか行っていないはずなのだが。
早紀は来ない。
来たところで、自分に興味はもたないだろう。
久方は目を閉じた。タイミングよくピアノの音が止まった。結城が何か余計な(久方には余計としか思われない)指導をしているのだろうか。外からかすかに風の音がする。暖房の音。時々猫の足音。最近猫達はこの部屋にすっかり居ついてしまった。やはり、温かい所が好きなのだろう。
眠くなってきた──
気がつくと、久方創はまたモノクロの森にいた。
ああ、またやってしまった。
新道先生に見つかったら怒られるなあ。
久方はそう思いながら、感覚のない森の中を進み始めた。
ここに来ると、どうしても、
『あの人』を探してしまう。
なぜかはわからない。頭ではわかっている。あの人は自分を嫌っている。痛めつけて存在を消そうとする。近づいてはいけない。
なのに、ここに来ると──
母さん。
久方はつぶやいた。もちろん返事はない。
なぜ自分はまだあの人を探しているのだろう?一度会って存在を否定されているのに。あの人が求めているのは橋本だ。自分は、自分の体は、死んだ橋本をよみがえらせるための道具でしかない。
なのに。
母さん。
またつぶやいた。
なぜ自分はまだ、
あの人を探し続けているのだろう?
久方はモノクロの木々を時々見上げながら歩いた。ここには生物の気配がまるでない。なぜこんな場所があるのだろう?あの人が作ったのか?マザーアースとか呼ばれる力で?新道先生が言っていた『あなたも母親と同じ能力を持っているのでは』という言葉も思い出した。
もしかして、ここは、
僕が作った世界なのか?
そのことに思い当たり、久方は立ち止まった。
帰った方がいい。
急に正気を取り戻したかのように、頭がはっきりしてきた。久方はもと来た道を引き返した。しかし、いくら戻っても同じようなモノクロの林があるだけだ。
誰もいない。
音も聞こえない。
ああ、今、たまらなく音楽が聴きたい。STINGでもモーツァルトでもいい。今ならピアノ狂いの音痴な歌声も大歓迎だ。
久方は元々、静けさが好きで音が苦手だ。
しかし今は何かがほしい。
音楽が。
生きている何かの気配が──
所長!起きてください!
所長!
突然早紀の声が聞こえたかと思うと、視界にも色が溢れ出した。目の前に早紀の濃い茶色の瞳があった。
まだお昼です。今寝ると夜に眠れなくなりますよ。
久方はしばらく、ぼんやりと早紀を見つめた。
所長?起きてます?大丈夫ですか?
サキ君、彼氏はどうしたの?
久方は起き上がりながら尋ねた。
いいんですよ別に。
どうせまたどっかで動画でも撮ってるんでしょ?
機嫌が悪そうだ。早紀は猫じゃらしを取ってきて、かま猫と遊び始めた。シュネーは近づかず、暖房の近くからこちらを見ていた。久方はシュネーに近寄って背を撫で、毛の感触を確かめてからポット君にコーヒーを頼みに行った。しかし、充電中で動かなかったので、自分でコーヒーを2ついれて部屋に持っていった。
天井からはリストの曲がとぎれとぎれに流れていた。保坂と結城が交互に部分練習をしているようだ。
保坂、いつまでここに来るつもりなんですかね。
早紀が天井をにらみながら言った。結城を保坂に取られたと思っているのだろうなと久方は思った。
ピアノのうまさには果てがないから、ずっと習い続けるんじゃない?それか、結城が飽きて放り出すまでだね。こんなに長く続くなんて僕も思ってなかった。何でもすぐ『めんどくさい』って言う奴だから。
ピアノはめんどくさくないんですね。未だにラヴェルなんか弾いちゃって。
結城さん、奈々子のこと好きでしたよね?
僕もそう思う。最近奈々子さんは出てくるの?
全然出てこないです。人が相談をしたい時に限って行方不明になって気配もしなくなるんですよ。
私、やっぱり勇気と別れた方がいいですかね。
忘れてくれ、勇気も結城も。
と久方は言いたくなったが、こらえた。
好きでもない人と付き合うの、よくないですよね?
早紀がダメ押ししてきた。
一回、話し合った方がいいんじゃないかな。
でもあいつ絶対動画に残そうとするんですよ?
それが嫌なんです。
『動画撮られるの嫌だ』って言ってみたら?
もう何回も言ってますよ。
変態だからやめてくれないんです。
だったら別れた方がいいよと久方は言いかけたが、その代わりにキッチンに行って、冷蔵庫からハーゲンダッツを取ってきた。アイスを食べる早紀を眺めながら自分の情けなさに浸っているうちに、2階から結城と保坂が降りてきて『俺にもアイスよこせ!』と言いながら冷蔵庫をあさり始めた。早紀はその間に帰っていった。
新橋、最近落ち着きがないんすよ。
クラスでも話題になってるっす。
保坂がガリガリ君をかじりながら言った。
それは彼氏にキスされたからだと言いたかったが、口に出すのもおぞましい事態なので久方は黙っていた。今日これで何回言葉を飲み込んだだろう?
でもやっぱり、僕にとってサキ君は特別な人だ。
モノクロの世界から僕を呼び戻した。
久方は都合よくそう思っていた。自分は早紀を大切に思っている。でも向こうはおそらく、結城が言うように『仲のよい親戚のおじさん』くらいにしか思っていないだろう。年齢も住む世界も、何もかも違う。
だが、こんなに近くに感じた存在が、他にあっただろうか。
結城と保坂が別なピアニストのテレビ出演についていろいろ言っているのを、久方は聞くフリをして、実は早紀のことばかり考えていた。
早紀がいない人生など、もはや考えられない。
しかし、どうしたらいいのだろう?
結城が『あいつより俺の方が絶対うまく弾ける。見せてやろう』などと大人気なく言いながら保坂を2階に連れていき、嫌味なほど上手い演奏が聞こえだした。結城は意外と嫉妬深いなと久方は思った。こんな所でいくらうまく弾いても、誰も聴いていないだろうに。
でも、自分も結城を笑えない、と久方は思った。
どうしたらいいか、まるでわからないからだ。




