2017.3.14 火曜日 ヨギナミ
ヨギナミは学校を休んで、午前中、病院にいた。
母はあいかわらず目を覚まさない。いつか自分や他人を罵っていた頃とは比べ物にならないくらい、顔色も悪く全体的に弱々しい。
かけるべき言葉も見当たらず、ヨギナミは母を見つめながらずっと座っていた。途中でおっさんがやってきて別な椅子に座ったが、やはりしばらく無言だった。
お母さん、何がしたかったのかな。
ヨギナミがつぶやいた。
お母さんが何をしたい人なのかわからない。
世の中を嫌ってたのだけはわかるけど。
病気だからだ。
おっさんが答えた。
本当はやりたいことはいくらでもあっただろうよ。でもな、自分は病気で、まわりのみんなと同じ行動はできない。だから黙ってたんだよ。
できないことを口にしても悲しいだけだろ。
まるで、もう死んだ人の話をしているかのようだ。2人ともそう思っていたが、口にすることはなかった。
3時。
ヨギナミはカフェでまたおっさんに会った。
早紀と高条がいて、カウンターに二人並んで、ホワイトデーのお返しのチョコクッキーを食べていた。おっさんも『創から』と言って、チョコのお返しをヨギナミに渡した。シロツメクサの形をしたチョコで、隣のショコラティエのものだった。
そういえば、杉浦に渡したチョコはどうなったろう?今日学校に行かなかったけど、もしかしてお返しを用意してくれていただろうか。毎年のお決まりのことだが、ヨギナミはそれが気になった。
早紀は時々ちらちらとこちらを見ていたが、話しかけてくる様子はなかった。ヨギナミも早紀と高条が気になって、時々カウンターの方を見た。高条はずっとスマホをいじっていて、あまり人と話す気はなさそうだ。松井マスターも時々孫の方を見ているのがわかった。早紀もクッキーを食べ終わるとスマホを見始めた。
学校もそろそろ終わりか?
おっさんが尋ねてきた。
うん。今週で終わり。
早いもんだな、もう春か。
おっさんは窓の外を見た。外は曇っていて、今にも雪が降り出しそうだ。
おっさん、春に何か思い出ある?
ない。
私もないなあ。
おいおい、それはないだろ。何かあるだろ。
だったらおっさんにも何かあるでしょ。
ヨギナミが言い返すと、おっさんは気まずい顔をした。
あんまいい思い出なさそう。
早紀がつぶやくのが聞こえた。ヨギナミがおっさんを見ると、
髪が赤かったから、入学式を追い出されたんだよ。
とおっさんが言った。
中学の時は事前に写真を提出したんだけどな。それでもクラスの連中の目は冷たいんだよ。
そういえば、昔の映像ではみんな髪真っ黒ですね。
高条が言うと、早紀が、
『黒山の人だかり』って言葉が昔あったって聞いたことある。昔の人はみんな髪が黒かったから。
と言った。
そうだよ。
だから俺はいじめられんだよ。
おっさんが言った。
おっさん、いい思い出はないの?
ヨギナミが尋ねた。
ねえな。
おっさんは腕を組んで椅子の背もたれにもたれた。
でも友達いたでしょ?
いたけどよ。
でもみんなどこか別な世界の人間みたいだったな。
別な世界?
普通の人間と、そうでないものの世界は、違うんだよ。
おっさんは自分が普通じゃないと思ってたんだ。
そうだよ。その普通じゃない世界に、2人、入り込もうとした奴らがいた。
それって初島って人?
ヨギナミが尋ねた。カウンターの早紀が目をむいてヨギナミの方を振り返った。
初島と新道だ。でもあいつらは2人というよりは──
おっさんはそこであごに手を当てたまま、考え込んでしまった。そこでヨギナミは、高校の入学式で杉浦が、頼まれてもいないのに勝手に壇上に上がって『新入生代表演説』をやったこと、しかもそれは誰にも理解できないような難解な内容で1時間以上続いたため、最後には佐加がキレて『てめーうるせー早く降りろ!』と杉浦を引きずり降ろし、大変な騒ぎになったことを話した。これがヨギナミにとっての『愉快な春の思い出』だった。
杉浦ってなんであんなにズレてんだろうね。
高条が言った。
思い上がってんだろ。本を読むだけで賢くなれると思い込んでる。でも実際は頭でっかちの馬鹿になるだけだ。
おっさんは心底嫌そうに言いながら立ち上がり、『もう帰るぞ』と言って店を出ていった。
ヨギナミ、病院行ってたんでしょ。
お母さんどうだった?
高条が話しかけてきた。なぜかスマホをこちらに向けて。
あいかわらず眠ったまま。
ヨギナミは答えた。
人を勝手に撮るのやめなよ。
早紀が高条に注意した。
いや、これは日記みたいなもんだから。
高条はそう言って笑った。
うわあ、やっぱイケメンだ!
ヨギナミは一瞬その笑い顔に見とれたが、すぐに我に返った。
2人とも、毎日ここで一緒にいるの?いいなあ。
ヨギナミはお愛想で言った。高条は笑ったが、なぜか早紀は不満そうな顔をしていた。
邪魔されたくないのだろうなと思って、ヨギナミは帰ることにした。
携帯を見ると佐加が『今平岸家にいるんだけど、まだ帰らないの?』とメールが来ていた。やれやれ、今日も一人で勉強は無理そうだ。もうすぐ3年になるというのに。
杉浦や佐加達と過ごせるのも、あと1年。
それはどういうことなのだろう?
その後は?
どうなるのだろう?
考えながら平岸家に入ると、見覚えのある男子の靴が2つ、並んでいた。杉浦と藤木だ。つまり──。
やあヨギナミ!ハッピーホワイトデー!
今日は第1グループで勉強会をしようじゃないか!
テレビの間で、杉浦が両手を広げて、満面の笑みで迎えてくれた。隣には呆れた顔の藤木がいて、向かいの佐加は、
逃げたんだけど捕まったさ。
と悲しい顔で言った。
こたつの上にはホワイトデーらしいプレゼントの包みと、使い古された問題集の山があった。
我々も来月には3年生だ。栄えある最高学年だよ君!
杉浦は、ぼんやりしていたヨギナミを自分の向かいに座らせた。
高校3年といえば、有名な歌にもあるように、青春の象徴だよ!しかしだ!受験前の、学問上で大切な時期でもあるわけだ。そこで!
杉浦は卓上の問題集を手で叩いた。
我々は今までに学んだことをいったん洗いざらい総復習して、これからの重要な1年に備えようではないか──
うっせー話長えんだよホソマユ!
いいからこの問題の答え教えろ!
佐加が自分のノートを杉浦の前に叩きつけた。
何を言っているんだ。
自分で解かなければ力がつかないだろう?
うるせーわかんねーとこ教えてくれるってさっき言ってただろうが!
それにしたってまず自分で解く努力をしたまえ!
ギャーギャー騒ぎ立てる2人。無視して自分のやりたい勉強をしている藤木。手にはヘアカットの本を持っていた。
ヨギナミは、これがずっと続けばいいのにと思いながら、自分の勉強道具を取りに一度アパートに戻った。




