2017.3.12 日曜日 病院→研究所
病院。
目を覚まさない与儀あさみの横に、久方、いや、橋本が静かに座っていた。いつもなら、最近起きたことをいろいろ話して聞かせるのだが、今日は黙って、あさみの顔を見つめていた。
美しいが、色のない顔。
誰かに似ている、と思ったが、それが誰かは口にしたくなかった。小一時間ほどそこにとどまった後、橋本はおもむろに立ち上がり、部屋を出た。病院を出て数歩歩いた所で、体は久方に返された。
あさみさんはもう目を覚まさないって、
最近ようやく実感がわいてきたらしいんだ、橋本は。
車内で久方がつぶやいた。
ほんとに見込みないの?
結城が運転しながら尋ねた。久方は答えなかった。無言の中車は走り、研究所に着いた。
そこにはすでに早紀がいて、コーヒーを飲みながら、かま猫に猫じゃらしを振って遊んでいた。
あれ〜?一人?彼氏は?
結城がからかうような声をあげると、早紀は怖い目でにらんできた。結城は気にせずに買ってきた弁当をテーブルに並べ、早紀に『お前の分はないぞ』と言った、早紀は、
もう食べてきたからいりませんよ。
所長、こんな時間まで病院にいたんですか?
よくないですよ。
と言った。久方は曖昧に笑った。
2人が食事をしている間、早紀は最近起きたことを──ただし、彼氏の話を除いて──一人で話し続けていた。3年の卒業式で知っている先輩が一人もいなくて、なんとなく浮いてしまったとか、佐加が校舎をキラキラデコしようとしているという恐ろしい話とか、高谷修平が図書委員長に一方的に片思いをして相手にされていない話とか。
伊藤ちゃん、たまに宗教っぽい本を勧めてくるんですよね。でも私はそういうのよくわからないです。
神を信じてる人って何を信じてるんですかね。
存在?考え方とか?ただ昔からあるものだから?
でもサキ君、神社には行くよね。
あ〜そうですね。パワースポットはなぜか信じてます。でも変ですかね、宗教も神も信じないのにパワースポットだけ好きなの。
こんな話をしているうちに、結城が立ち上がった。いなくなったら早紀と一緒にウディ・アレンの映画を見ようと久方は思っていた。しかしその期待は外れた。結城がソファーに座ってテレビを見始めたからだ。
ポータブルのDVDプレーヤーを別に買おうかな。
と久方が考えていると、早紀もソファーに座って、結城と一緒にテレビを見始めた。久方は軽い悲しみを覚えながら弁当ガラをキッチンに捨てに行き、ポット君がなぜかもういれていたコーヒーを飲んだ。キッチンの小窓から外を見ると、きれいに晴れて、日差しが室内にも届いていた。
久方はその光に手をかざした。温かい。
僕は生きている。
そのことを強く感じた。あさみは目覚めないし、早紀は自分を見ていない。人生にはろくなことが起きていない。なのに、今までで一番『自分』というものを強く感じることができた。
でも、それはなぜだろう?
考え込んでいると、部屋の方向から言い争う声が聞こえてきた。『彼氏んとこ行けよ!』と結城が叫んでいるのが聞こえたかと思うと、本人が廊下に出てきて、イライラした足音を立てながら2階に行ってしまった。しかも、その後聴こえてきたのは、ラヴェルのあのトッカータだ。
──完全に嫌がらせだ!
久方がそう思った瞬間に、早紀が外に飛び出していった。
夜になって早紀から『最近彼氏とうまく行ってない』『会話ができない』『何考えてるかわからない』という言葉がいくつも来た。久方は心配しつつも『このまま別れてくれないかなあ』と思ってしまい、そんな自分が情けないと思った。たとえ早紀が彼氏と別れたとしても、自分の方を向いてくれる可能性はない。結城と幽霊達の問題もある。
お前の気持ちを伝えたらどうだ?
夜中、橋本が話しかけてきた。
無理だよ。それは大人のやることじゃない。
はっきり伝えて早めに振られた方が諦めがつくぞ。
久方はそれには答えなかった。
怖いんだな。
橋本は苦笑いしながら消えた。一体何を考えているのだろう?自分だってまさに今、あさみを失おうとしている所だろうに。
そうだ、サキ君もあと一年でいなくなる。
久方は思った。せめてその一年の間だけは、自分は早紀にとって『親切な大人の友達』でいようと。苦しいが、これ以上深い関係を求めて傷つくのは避けたい。
橋本の言うとおりだ。
恐いのだ、早紀に拒絶されるのが。




