2017.3.10 1981年3月
自分が卒業できるなんて奇跡だ。
新道隆は朝からそう強く感じていた。
記憶は今も戻っていない。
両親も現れない。
なぜなら、そんなものは初めから、
『存在しなかった』からだ。
それでも、学校の仲間や近所の人が助けてくれた。頭の悪い自分に勉強を教えた菅谷。かわいいながらも強く支えてくれた菜穂。そして橋本。読書の何たるかを教えてくれた橋本。
今はもう、いない。
橋本は前年の8月に、あの廃ビルの窓から落ちて死んだ。橋本のいとこの由希ちゃんが『あきらちゃんは誰かに突き落とされた』と泣きながら訴えたが、大人達はそれを信じなかった。
廃ビルはその後、取り壊された。
あの窓。
一度は自分が止めたのに。あの時だって止められるはずだったのに。新道はあの日、橋本の側にいなかった自分が今も許せなかった。
止められたはずだ。
止められたはずなのに。
この半年、その言葉が頭から消えることはなかった。新道は橋本の死をきっかけに黙り込むようになり、以前のような無邪気さを見せなくなった。ただ、橋本の部屋にある本を読み、考え込む日々が続いた。あいつは一体何を考えていたのだろうかと。しかし、いくら考えても、死ななくてはいけない理由など見つからない。
こんな状態で受験勉強をして、大学に受かるなんて奇跡だ。新道はそれをやってのけた。費用はなんと、橋本の父親が出してくれた。本来は息子に使うはずだった貯金を。
橋本のおかげで、今の自分がある。
しかし、あいつはもういない。
何も返すことができない。お礼すら言えない。
卒業の別れを悲しがって騒いでいるクラスの人達から、新道はそっと離れた。一人になりたかったからだ。静かな場所で考えたかった。『これは一体どういうことなのか?』ということを。
しかし、一人で外に出たのに、そこには先客があった。
初島緑だった。
初島は橋本の死後、錯乱して父親を殺したと叫び、その後行方がわからなくなっていた。『指名手配されて逃げている』というのが、もっぱらささやかれる噂だった。
初島はすり切れた紺色のコートを着て、死んだように印象の薄い目を新道に向けていた。新道は立ち止まり、しばらく無言でその姿を見つめていた。最後に会った日に言われたことを思い出しながら。
あんたは私が創り出したの。だから過去なんてないし親なんていないのよ。ありもしないものをいつまでも期待しているなんて、馬鹿みたい!
もっと役に立つと思ってたのに!
その他、数々の罵詈雑言を放たれて、ショックを受けたものだった。やっと忘れかけていたのにまた思い出してしまった。
「元気そうね」
先に口を開いたのは初島だった。
「みんなのおかげで卒業できたよ」
新道はつぶやくように声を出した。本当はもうこれ以上、初島とは話したくなかった。過去に嫌な思いをさせられたこともあるが、それだけではない。
初島からは、どこか不穏の匂いがした。
狂気の香りが。
「よかったわね」
初島の表情も声も、氷のようだった。
「でも気をつけなさい。その体は長生きできるようにはできていないから。せいぜい10年か20年てとこね」
「そうか」
話をまともに聞く気になれず、新道は生返事をした。すると初島は口元にだけ笑みを浮かべながら近づいてきた。
そして、あの狂ったような、目を見開くような笑みを浮かべながら、こう言ったのだ。
「橋本は、必ずよみがえらせてみせるわ」
その顔は、完全なる狂気を表していた。
「どんな手を使ってでも──」
それだけ言うと、初島はくるっと向きを変え、歩き去った。新道が『初島!』と叫んでも振り返らなかった。
何をする気だ、初島。
新道の胸の内に黒い不安と動揺が生まれた。
初島はまた何かやろうとしている。
しかも、とんでもなく悪いことを。
「シンちゃ〜ん!」
後ろから菜穂がかわいらしく走ってきた。
「菅谷くんのお母さんがごちそうを用意して待ってるって。早く行こう!」
菜穂は泣きはらした目をしていたけれど、明るく笑っていた。その後ろには菅谷と、クラスのみんながいた。みんな晴れ晴れとした顔をしている。
橋本がここにいたら──
「行こっ!シンちゃん!」
菜穂が新道の腕をつかんで見上げてきた。やっと笑う気になれた。そうだ、自分には仲間がいる。学校の友達、友達の両親、近所の人など。昔手伝いをした近くのおじいさん、おばあさん達も、新道の卒業を聞きつけて色々なお祝いを贈ってくれた。
自分は、幸せなのだ。
「お兄ちゃんも呼んだから」
菜穂が言った。
「あの人またお前を試そうとするぞ。妹の婿にふさわしいかどうか」
菅谷が言った。
「勘弁してよ!お兄さんの話時々難しすぎるんだよ!」
新道はできるだけ明るく言った。みんなで菅谷家への道を歩きながら、ふと思った。
初島には、仲間がいなかったんだな、と。




