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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年3月

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2017.3.1 水曜日 研究所

 3月がやってきた。今年は雪が多かったため、気温が上がってもなかなか積もった雪は減らない。しかし、季節は確実に変わり始めている。春が近づいている。

 久方創は久しぶりに外をゆっくり歩いていた。プラス気温で、ところどころ雪解けの水滴や溶けかけたつららが光っていた。空は曇りで暗めだが、それでも昼間の明るさの中には植物の気配がある。

 時が過ぎ、季節はどんどん変わっていく。

 なのに、自分だけが変われない。

 そのことを悲しみながら建物に戻ろうとしたが、けたたましいピアノの音がしたので引き返し、町へ向かう道に入った。カフェに行こうかと思ったが、あそこには早紀の彼氏がいる(この時間は学校だろうが、マスターに孫の話をされると辛い)ので、チョコレートショップをのぞいた。本堂まりえが出てきて久方を奥に引き込み、アールグレイを出した。2人で『もうすぐ春ですねえ』というたわいもない話をした。


 去年の今頃は楽しかったのになあ。


 久方はぼんやり思っていた。早紀がこの町に来たのが去年の3月。まだ学校は始まっておらず、友達や彼氏に邪魔されることもなかった。2人で春になりかけた草原を歩いていた。

 昔のことばかり思い出し、まりえの話をほとんど聞いていなかった。話の成り行きでハスカップジュレの入ったチョコレートを買って店を出て、カフェの方をちらっと見て、そのまま帰ることにした。

 建物に近づくとまだピアノの音がする。今日もラヴェルだ。結城は一体何を考えているのだろう?やはり奈々子さんがこだわっているトッカータを完成させたいのだろうか。それは一体何のためなのだろう?愛?単なる意地?自分のため?

 久方はキッチンに行き、かま猫がいないことを確かめると、炊飯器のまわりにアルミホイルを敷いた。猫はアルミホイルを嫌うらしい。まりえから聞いた。今度こそ炊飯器で炊き込みご飯を作らせてもらわなくては。

 材料をセットしてから部屋に戻る。ピアノが止まり、上から足音が近づいてきた。また結城がテレビを見に来るのだろうと思っていたら、足音はそのまま部屋の前を通り過ぎて外へ行ってしまった。

 テレビが自由な状態なので、久しぶりに映画でも見ようとDVDの棚を眺めたが、何も手に取る気になれなかった。


 サキ君がいない。


 思い浮かぶのはそのことだけだった。久方の中で、早紀はもうこの建物とセットになっていて、いないのは不自然なのだ。

 早紀が来る前の自分を思い出そうとしたが、ろくなことが浮かばなかった。混乱していて、自分が何なのかもよくわからず、絶望して自分を捨てかけていた。今でも多少そんな所がある。

 早紀は自分の何を変えてしまったのだろう。

 何もかもだ。

 久方はしばらくソファーに座って考え事をしていた。かま猫が近づいてきて隣に丸まった。シュネーは窓の外をしきりにのぞいている。何か動くものでも見えたのだろうか。あと少しして春が来たら、鳥たちが鳴き始めるだろう。

 早紀はもうすぐ3年生になる。この町にいるのもあと一年だ。いや、そんなことを考えても仕方ない。彼氏がいるのだから。結城は対抗しろとしきりに言うが、久方にそんな気力はない。


 若い人の邪魔をしてはいけない。

 だけど──


 久方の思考はそこで止まった。外から雨の音が聞こえ始めた。それとほぼ同時に、廊下を走る足音、続いて、2階から響くガーシュイン──これは保坂だろう──2つの音が入り乱れて、部屋の空気は一変した。

 人の気配、音楽。

 なぜ自分は、一人でここにたたずんでいるのだろう?

 動きを止めた久方の足元を、シュネーが通り過ぎていった。みんな動いている。みんな生きている。なのに自分だけが生きた心地がしない。それはなぜなのか。

 いや、違う。自分は恵まれている方だ。

 久方は考えを変えようとしていた。すぐに暗い気分に飲まれていた以前とは違い、『生きたい』という気持ちが芽生え始めていた。しかしそれはまだ小さな芽で、少しでも踏まれたら折れてしまいそうなものだった。どうやって守ればいいのかはわからなかったが、とりあえず今は気晴らしにウディ・アレンの映画でも見直そうと思った。何かしていないと気が滅入りそうだった。


 本当は映画もサキ君と見たいんだけど。

 きっとしばらく来ないだろうな。


 久方はDVDケースを見ながらそんなことを思い、慌ててその考えを振り払って、お気に入りの映画を再生し始めた。







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