2017.2.24 金曜日 研究所
自分は一体何者なのか。
昨日から、久方創はそればかり考えていた。いや、ずっと前、神戸にいた子供の頃からずっと考えていた。自分は何者なのか。もう一人の存在に押され、今にも消えそうだった自分。常に不安で、地に足がつかないような感覚がし続けていること。
風が強く、窓を揺らしている。外は雪だ。人は室内に閉じこもり、嫌でも内面と向き合うことになる。
いや、ほとんどの人はテレビやネットで気晴らしをしているだろう。でも、久方はそうする気になれなかった。いつものカウンター席で、石像のように動きを止めて、自分の存在は何なのか考えていた。
自分は元々、橋本を蘇らせるために作られた存在だ。
本当なら、ここにはいないはずだった。
でも、自分の意識が、感情が、ここにある。体は橋本のために作られたのだとしても、自分の存在というものが、ある。とても不確かで、よく見失いそうになるけれど。
なぜ僕はここに存在しているのだろう?
昔からそれが知りたかった。生物学の世界に入ろうとしたのもそのせいだ。でも、何もわからなかった。生命の神秘には惹かれたが、それは自分という存在の謎には答えてくれない。
存在が不確かに感じるのは、実の親がいないからだと思っていた。あるいは、本当はこの体はもう一人のもので、自分はいてはいけない存在だと思っていたから──そう自分に教えたのは、他でもないあの人だ。
自分の存在は、望まれていなかった。
今でもあの人は、橋本を探している。
天井からピアノが聴こえてきた。今日はラフマニノフだ。ピアノ協奏曲のピアノの部分だけを弾いているようだ。オーケストラとの共演でも夢見ているのだろうか。こんな所にいては絶対に実現しないだろうに。
結城は、どうするつもりなのだろう。
早紀を、奈々子さんを。
久方は椅子から降りて、廊下に出て、2階に行きかけたが、やめて戻ってきた。仕事も今日の分は終わった。橋本が出てくる気配も今日はない。やることがなくなってしまった。猫達は思い思いに寝転んだり、カウンターに飛び乗ったり、気ままにしている。
君達は親が恋しくなったりしないの?
久方はかま猫に話しかけてみたが、もちろん返事はない。
なぜ自分は、あんなに残酷で絶望的な母親をまだ求めているのだろう?久方は自分で自分が理解できなかった。捨てられた瞬間にあの人の手から離れているし、神戸にちゃんとした両親がいて、人生の大半を一緒に過ごしたというのに。
なのになぜ?
久方はカウンターに戻って外の雪景色を眺めた。雪の降り方は弱くなっていた。しばし外を眺めた後、出かけることにした。気分を変えないと、またあの森へ行ってしまいそうだ。あの死者の領域に。
体が、あなたでいることに慣れていないからですよ。
昨日うっかり会ってしまった新道先生はそう言っていた。
橋本が長い間使いすぎたせいですよ。まず、あなたは、自分自身でいることに慣れなければいけませんよ。それに違和感があっても、逃げないことです。いずれ慣れますよ。時間をかければね。
自分自身でなど、いたくない。
誰にも求められていないのなら。
久方は雪原を歩いていった。前はこの大いなる自然を見れば、自分の存在などすぐに忘れてしまえたのに、今はそれができなくなっていた。なぜ自分はここにいるのか、などと、木々や雪は悩まないだろう。動物達も。
自分は存在していていいのだろうか。
それだけにとらえられながら歩いていくうち、駅前の建物が見えてきた。カフェ、チョコレートショップ。普段あまり関わることのない『世の中』がそこにある。
カフェの孫に会いたくないので(早紀も一緒かもしれない!)チョコレートショップに入って、何も悩んでいない人のようになんとなく中を見て回り、ゆずのチョコレートを買った。本当は早紀に食べさせたかったが、今は彼氏がいるから遊びに来ることはないだろう。
店を出て少しほっとした。とりあえず、普通の人のふりをして買い物をすることはできる。心は思い悩んでいたとしても。
カフェの入口をちらっと見やってしばし立ち止まってから、久方は帰ることにした。本堂まりえも今日は姿が見えない。作品作りで忙しいのかもしれない。
こんなことばかり考えて、もう何日、
いや、何年ムダにしてきたんだろう?
帰り、晴れて光がさしてきた雪原を見ながら、久方は思った。雪が日の光を浴びて輝いている。世界はこんなにも美しい。どこから来たのかなどど、自然は誰にも問わない。
本当はわかってる。
どう生まれてきたかなんて、今の生活に関係ない。
ただ、今を生きればいいだけだ。
でも、その『今を生きる』ことが、
過去のせいで、こんなにも難しくなるとは。
建物に近づくと、まだピアノの音が聴こえていた。今日は一日中一人オーケストラをやるつもりだろうか。悲しい奴だ。久方は思った。自分とどっちが悲しいだろう。親に求められていない子供、オーケストラのいない協奏曲。
久方はテーブルにゆずのチョコレートを並べ、ポット君にコーヒーを2人分頼むと、ピアノ狂いの邪魔をするために2階に上がっていった。今日は悲しいもの同士、甘いものでも食べて気晴らしをするのも悪くない──少なくともその間は、自分を『今』につなぎとめておける。
本当はサキ君に来てほしかった。でもそれは無理だ。若い人には新しい人生がある。暗い過去にとらわれずにすむ時間が──
そこで久方は思い出した。昔早紀が『辛い思い出』を忘れるためにマカロンを一気食いしていたことを。
サキ君にも、過去がないわけじゃない。
前の学校ではいろいろあったはずだ。
それでも前に進もうとしている。
チョコレート買ってきたけど、食べる!?
久方は2階の廊下で、むやみに大声を張り上げた。頭の中の雑念全てを吹き飛ばしたかったからだ。
ピアノが止まり、怪訝な顔の結城が出てきた。
チョコなら神戸からしょっちゅう送ってくるだろ?
自分で買わなくてもよ。
いや、駅前のあの店のだよ。味が違うよ。ゆずだって。
じゃ、試してみっか。
思ったよりも大人しく、結城は一緒に降りてきた。それから、結城がチョコを食べながら『昔俺にチョコレートを貢いだ女達』の話を延々とするのを、久方はぼんやりと聞いていた。




