2017.2.20 1999年
卒業式の帰り、奈々子は帰宅せず、円山公園駅まで行って南方向にひたすら歩き、旭ヶ丘の西友までたどりついた。昔、父親がよく連れてきてくれた場所だった。ただし、飲食ができるような席のある店がないので、店内を一通り見て、トイレを借りて、すぐに出てきた。それからまた円山公園に向かって歩き出した。
高校生活は、あっという間に終わってしまった。
特に何も起こらずに。
元子達は、これから卒業旅行に行くことになっているが、奈々子はそれに参加できない。親が金を出したがらなかったからだ。進学先が札幌から通える距離にあるのに、奈々子は4月から一人暮らしをすることになっていた。母親が奈々子を嫌っていて、早く家から出ていくようにとしきりに主張しているからだ。
自分は誰にも愛されていない。
現実が、迫ってきた。
奈々子は大通まで行き、なんとなく足はまた、創成川に向いた。当時はまだ公園はなく、ただの一本道だった。長い柵に軽く手をかけ、川と、向こう岸を眺める。
何も変わっていない。
以前と同じだ。
でも奈々子は高校を卒業した。もう『女子高生』という不快なレッテルを貼られたり、援交を疑われることもなくなるだろう。ただし、『女子大生』という肩書きもそれなりにいやらしくて苦痛ではあるが。普通に『大学生』と呼べばいいものを、世間は未だに女を変な目で見ている。じつは奈々子の父親も『女が大学に行くの?』と、奈々子の進学に疑問を持っている人だった。さすがに学費は出してくれたが、大学合格もあまり喜んでいない様子だった。
虚しい。
奈々子はいろいろなことをいっぺんに思い出して動きを止めていた。すると、誰かに肩をつつかれた。
「ここで待ってたって、もう誰も来ないでしょ」
ナギだった。久しぶりに見た彼は前より大人びて見えた。あいかわらず危険なほど美しい。でも、いつものバカにした笑いはなかった。
「知ってる」
奈々子は言ってから、また向こう岸に目を戻した。
「今まで何してたの?」
ナギが尋ねた。
「今日、卒業式だった」
奈々子は卒業証書が入った筒を見せた。
「どうして教室に来なくなったの?」
ナギが言っているのは音楽教室のことだ。奈々子はこの年に入ってすぐ、教室をやめていた。
「大学に行くから。声楽はもうやめる」
奈々子は向こう岸を見たまま言った。ナギはしばらく黙っていたが、
「バカげてる」
いつもの皮肉っぽい口調が戻っていた。
「あんなに才能あるのに、やめる?音楽やってる奴らが死ぬほど欲しがってるものを持ってるのに、やめる?頭おかしいんじゃない?」
「私は大学で心理学をやるの」
「そんなもんやって何になるの」
「なぜこんなことが起き続けるのか知りたい」
「こんなことって何」
「あんたにはわかんないこと」
「なんでわかんないって決めつける?」
ナギが隣りに来て柵に手をかけ、奈々子の顔をのぞいた。奈々子は川の向こうを見たままだった。今、ナギと顔を合わせたくない。ここに来るんじゃなかったと思っていた。どこに行くべきだったのだろう?橋本古書店?でも、新道先生はもういない。2月に亡くなってしまったから。
「最近、修二に会った?」
ナギは話題を変えた。
「もう3ヶ月くらい会ってない。もう会わないんじゃないかな」
「なんで?」
「なんとなく」
「あんたやっぱりさ、修二とあの女に嫉妬してるでしょ?子供できたから?」
「それはない。あの2人は私の理想だもん。ちゃんと愛し合ってる」
修二の子供じゃないかもしれないんだよ──
ユエさんはそう言っていた。
でも修二は、
ユエの子は俺の子だって言ってくれたんだよ。
やっぱり修二はただものではなかった。
「世の中には、自分の子供すら愛せない親がいる」
奈々子はつぶやいた。自分の親のことや、創くんのことを思い出して泣きそうになった。必死で涙をこらえた。
「あのガキのことまだ気にしてんの?」
「だからあんたにはわからないって言ってるでしょうが」
奈々子は言ってから、ふと、
「ナギ、人を好きになったことあんの?」
と尋ねた。
「あるよ」
という答えが返ってきた。
「あんの!?」
奈々子は本気で驚いた。女を利用して金を稼いでいるだけで、好きになることなんか絶対ない──なぜかそう思い込んでいた。
「あるよ」
奈々子はナギの視線を感じた。こっちを見ている。目を合わせてはいけない。なぜかそんな気がした。
「もう忘れたら?あのガキのことは」
ナギはまた話題を変えた。
「絶対忘れない」
奈々子は答えた。目頭が熱くなった。
「わかってる。私は余計なことをした。よその家の事情に足を突っ込んだ。でもそれは全部、自分のためだった」
「どういう意味?」
「創くんは私なの」
「は?」
「誰にも愛されないで捨てられてる」
奈々子の目から涙が溢れた。
「ひとりぼっち。私も同じなの。だからかまわずにいられなかった。でも、結局、世界は私達の味方はしなかった──あの子、今頃どうなっていると思う?考えただけで怖い。私は創くんに自分を見ていた。それが間違いだった」
奈々子はそこまで言って、
「私にも好きな人はいんのよ」
と対抗するように言った。ナギが一瞬震えたが、奈々子は川の向こうを見ていて気がつかなかった。
「中学の時に好きだった人。卒業式に靴箱にラブレターを入れておいた。彼、式が終わった後、最後のHRの間、ずっと私の方を見てた。でも、手紙の返事はくれなかった。家に電話もなかった。あ、私ふられたんだって気づいたのは、高校に入学してから。でも、はっきり言われてないから諦めきれなくて、他の男子には全く目が向かなかった。それで今日になって、高校生活も終わってしまった」
奈々子は一気にしゃべった。
「今気づいた。昔のことばかり気にしてたせいで、高校時代をまるまる無駄に過ごしてしまったって。バカげた話なのはわかってる。でも私おかしいのかな。今でもその人が私のこと好きで、いつか迎えに来てくれるんじゃないかって思うことがあるの」
「それはないでしょ」
ナギが弱った声で言った。
「そうだね。自分でもおかしいと思うよ。でも私未だに、自分を愛してくれる人が現れるのを待っているのかもしれない。親は私を嫌って、早く出て行けって言うしね」
「本当に大学に行くの?」
「江別で一人暮らしする。だからもうここには来ない」
奈々子はここでやっとナギの方を向いた。すると、手が伸びてきて、頬の涙を拭った。顔が近い。ナギの表情はいつになく真剣だ。
危ない。美しすぎる。
奈々子は思った。でもなぜか動けない。
「思いっきりバカにされると思ってたのに」
奈々子はおどけた声で言った。
「なんで黙ってるの、いつもの悪口はどうし──」
ナギが奈々子を抱き寄せた。奈々子は驚きで息がつまって何も言えなくなった。
「ナギ?」
奈々子は逃げようとしたが、ナギは強く抱きしめてきた。
「忘れろ」
ナギが言った。
「中学のこともあのガキのことも、昔のことは全部忘れろ」
「どうしたの?放して」
奈々子は言ったが、ナギは放そうとしなかった。奈々子はしばらく彼の腕の中にいた。こんなふうに男の子に抱きしめられたのは初めてだ。怖いけど、暖かくて気分がいい。ああ、なるほど。こうやっていろんな女を騙してきたのね、こいつ。奈々子はちょっとだけ笑ってしまった。
「何を考えてるの?」
奈々子はナギの顔を見上げて尋ねた。ナギはらしくない静かな表情をしていた。
「明日、もう一回、音楽教室に来てよ」
ナギがつぶやいた。
「さっき言ったでしょ?もう歌はやめるって──」
「とにかく来てよ」
ナギはさらに強く奈々子を抱きしめた。
「来るって約束してくれるまで、放さない」
何を考えているのだろう?奈々子は期待と不安で混乱していた。もう音楽の話はしたくない。諦めたのだから。でも、もう少しこの変な奴につきあってもいいかもしれない。
「わかった」
奈々子はとりあえず返事をした。ナギが奈々子の顔をのぞきこんで笑い、
「明日の10時ね」
と言った。それから奈々子を解放して、歩き去った。奈々子はしばらく彼が去っていく後ろ姿を見ていた。
だが、約束が守られることはなかった。
次の朝、奈々子が遺体で発見されたからだ。




