2017.2.19 日曜日 研究所
サキ君は来ない。
久方は、目が覚めた瞬間から自分に言い聞かせていた。一昨日の自分の発言をずっと後悔していた。『彼氏を頼ったほうがいいんじゃないか』なんてなぜ言ってしまったのだろう。突き放すようなことを。
あぁ、夏は楽しかったのになあ。
久方は思い出の中に逃げようとしたが、隣から自分で作ったらしいうるさい曲が聴こえてきたため、現実に引き戻された。
病院にはうるさい佐加がいた。橋本と一緒に最近の話を熱心にしていた。あさみは目を閉じたまま全く動かない。今日はヨギナミもいたのだが、椅子に座って2人をじっと見ているだけで、何も話そうとしなかった。そのうち『バイトがあるから』と先に出て行ってしまった。バスの時間を見計らったのだろう。
ヨギナミもさ〜、もうちょっと話せばいいのにね。
佐加がおっさんに言った。
何話していいかわからないって言うんだよね。
一緒に暮らしてると逆に話すことがなくなるんだろ。わかるよ。俺も生きてた頃は親父とはろくに話をしなかったからな。
そうなの?
ああ。
もっと話せばよかったとか思ってる?
思ってるよ。でもあん時は無理だったんだよ。なぜか話す気がしなくてな。
2人は少しの間黙っていた。
目、覚ましてくんねえかな。
そのうち、おっさんがつぶやいた。悲しい目をしていた。
だよね〜。
佐加も言った。
何もしなくていいから、起きててほしいよね。
そうだな。
それだけでいいのにね〜。
ヨギママいろいろ気にしすぎたんだよ。
よそのお母さんみたいにいろいろできないとかさ〜。
できなくたって別にいいじゃんね〜。
そうだな。
いろいろできてもダメな親っているじゃん。
保坂んとことか。
あいつの話はやめてくれよ。
それより新橋はどうしてる?
今日はカフェでデートだと思うよ。
あれ?サキが気になる?やっぱ所長が気にしてんの?
もう自分のとこには来ないんじゃないかって心配してるよ。
それはないと思うな〜。一緒に遊びに来ればいいのに。
彼氏が嫌がってんだよ。
高条が?マジで?サキを理解してないね〜。
そのうち大ゲンカして、サキが所長か結城さんに泣きついてくると思うよ。
佐加は平然とそう言ってのけた。おっさんは少し引いていた。
午後、久方は新しく届いた炊飯器を見つめて止まっていた。いや、正確に言うと、炊飯器の上に乗ったまま動いてくれないかま猫を見ていたのだが。
かま猫、これは椅子じゃない。
ごはんを炊く道具なんだよ。
久方は真面目に説明した。
そこにいると蒸気が当たって熱いよ。ヤケドするんだよ。だからどいてくれる?
久方は言いながらかま猫を持って床に下ろした。しかし、かま猫はまた炊飯器の上に乗って丸まった。何度下ろしても同じだ。どうやら気に入られてしまったらしい。
炊き込みご飯が作れないよ。
久方はつぶやいてから、あきらめて鍋で炊くことにし、材料と米を火にかけた。
この世に思い通りになることなどない。早紀は来ないし、橋本は落ち込んでいるし、猫は炊飯器を占領する。人生とはそういうものだ。
サキ君、どうしてるかな。
鍋の前に立ったまま、久方はぼんやりと考えた。
今まで相手をしてもらえていたこと自体が、奇跡だったのかもしれない。早紀は美人で、若い。同じような若い人と付き合うのが正しい。自分は偶然出会ってしまっただけだ。本来、釣り合わない。
久方は沈んだ気持ちで、昔のことを思い出しながら鍋を見つめていた。
何もしないで黙って見守ってる気か?
橋本の声がした。
炊いてる途中はフタをあけちゃいけないんだ。
そっちじゃねえよ。新橋だよ。
お前から近づいて取り返したらどうだ?
前、平岸家に遊びに行ってただろ?
また行ってみたらどうだ?
あの時は彼氏がいなかったんだよ。
久方は無表情のままつぶやいた。それから、
橋本さ、母さんのこと好きだった?
問いかけてみた。
そんなことねえよ。
じゃ、根岸さんが好きだったんだ。
それもねえって。誰も好きじゃなかったよ。
俺は生きてる間、人を信用したことがなかった。
新道先生は?
新道は人間じゃねえよ。
どういう意味?
声はそこで途切れた。鍋が沸騰し、久方は火を弱めて、キッチンタイマーのボタンを連打した。うまく炊けるといいが。
振り返ると、かま猫はまだ炊飯器の上にいた。
どうしてそれが気に入っちゃうのかなぁ。
久方はぼやきながら部屋に戻った。しかし、また戻ってきて、かま猫の写真を撮り、早紀と、神戸の母親に送った。
母からは『またたび送ったろか』というコメントが来たが、早紀からは返事が来なかった。とうとうスルーされるようになってしまったか。
久方は午後いっぱい、スマホを見たり部屋を歩き回ったりして、落ち着かない様子だった。
2階からは、人をあざ笑うかのようにショパンが響いていた。狂ったように踊り回る黒鍵が。




