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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年2月

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2017.2.17 1980年

「最近一曲弾けるようになったの!」

 根岸菜穂が、自宅のピアノの前で意気込んでいた。

「聞いてね!」

 そして弾き始めたのは、シューマンの『楽しき農夫』だった。軽くて明るい短い曲が終わると、

「おぉ〜」

 後ろにいた新道が手を叩いて喜んだ。なんだかよくわからないが、『ピアノが弾ける』というだけですごいことだと思ったのだ。

 そんな2人を、菜穂の母親が苦々しい表情で見ていた。高校生にもなってこんな、幼稚園児でも弾けるような曲を人前に平気でさらす愚鈍な娘にも腹が立ったし、何者だかわからないバカそうなヒョロ長い男も気に入らなかった。息子が連れてきたのでなければ、家になぞ上げなかったのだが。

「新道はいい奴なんだよ」

 出来のいいまともな息子、浩が言った。

「会ってやってよ。菜穂とは絶対に相性がいいからさ」

 確かに、相性は良さそうだ──バカさ加減では。母は考えていた。どうやってこの男を対面よく家から追い出そうか。

「見てわかるだろ、同じようなタイプだって」

 浩が機嫌よく声をかけた。

「同類のバカね」

 母はイライラした様子で答えた。

「新道も菜穂もバカじゃないよ。古典が読めるんだから」

「本を読むバカほど厄介なものはないのよ」

「そんなこと言うなよ」

「あの子がもっと人並みに何かできる子だったらよかったんだけど」

 母は侮蔑を込めた声でつぶやいた。

「菜穂は菜穂なりに十分がんばってるじゃないか」

「あの子なりじゃ駄目なのよ。世間並みでなくては」

「母さんは菜穂に厳しすぎるよ」

「バカは甘やかしちゃ駄目なのよ」

「菜穂はバカじゃないって言ってるだろ」

 この会話、全て新道に聞こえていた。新道は悲しくなってきた。橋本がよく自分をバカにしたとき、菜穂が『シンちゃんはバカじゃない!』と怒り出す理由もわかった。自分が家でバカ呼ばわりされているからだ。

 菜穂は『エリーゼのために』をつっかえながら弾いていた。さっきからピアノにばかり向かっていて、他の人と目を合わそうとしない。母親と話すのが嫌なのだろう。

「そろそろピアノをやめて勉強しないか」

 浩が2人に声をかけた。畳に掛け軸、重圧な木でできた座卓がある部屋に、新道は案内された。分厚い英英辞典が置かれているのを見てぎょっとした。どうしてみんな、自分に英語を教えようとするのだろう。

「おい新道」

 母がお茶を入れに下がった時、浩が新道に近づいてきて言った。

「大学に行けよ?」

「はい?」

「大学に行くんだ。そしたらお前はバカじゃないって母さんに証明できる」

「無理ですよ」

 新道は慌てた。

「俺頭悪いし、親もいないから金もないです」

「金は後でなんとかできるからまず学力をつけろ」

「無理ですって!」

「菜穂は大学に行けないんだ」

 浩が真顔で言った。

「お兄ちゃん、それはいいのよ。元々行きたくないもん」

 菜穂が言った。

「そんなことはないだろう」

 浩は妹に言い、振動の方に向き直った。

「あのな、うちは祖父も父も『女に学問はいらん』という考えなんだよ。女が大学なんて行く必要ないって考えなんだ。だから、菜穂は成績がいいのに学費を出してもらえない」

「ちょっと待ってください。それはおかしいでしょう。ナホちゃんは頭がいいし、こんな大きな家に住めるくらいお金があるのに──」

「おかしいのはわかってんだよ」

 浩はややイラつきながら言った。

「今どきそんな古臭い考えを持ってるのはうちの親くらいだ。でも、現実として菜穂は大学に行けない。でも、お前は行ける」

「話がめちゃくちゃですよ」

「とにかく勉強しろ。ちょっと教科書見せてくれよ」

 浩は新道から英語の教科書を奪い『おぉ〜懐かしいな〜』と言いながらめくりだした。新道が気まずく菜穂の方を見ると、何も聞こえなかったかのように問題集を黙々と解いていた。もう自分の運命を達観してしまっているように見えた。新道はまた悲しくなった。



「大学ゥ!?」

 古書店で橋本にその話をすると、橋本が大事をあげた。

「無理だろ」

「そうだよね。俺もそう言ったんだけどお兄さんは聞く耳を持たない」

 新道は困り果てて石炭ストーブの前に座っていた。

「でも根岸が大学行けないのは妙だな」

「やっぱりそう思う?」

「短大も駄目なのか?」

「タンダイって何?」

「聞いた俺が馬鹿だったよ」

 橋本がため息をついた。

「バカ、そうなんだ。あそこのお母さんは、ナホちゃんのことをバカって言うんだ」

「母親が?」

「俺にはなぜかわからない」

「そりゃそうだろうなあ。お前から見りゃ根岸は才女だもんな。でもな、世の中には勝手に馬鹿高い基準を設けて、そこに届かない奴を馬鹿にするのが好きな連中がいるんだよ」

「橋本もバカにされたことあるの?」

「毎日されてるよ。わかりきったことを聞くんじゃねえよ」

「誰に?」

「誰にって……この髪の色を嫌ってるほとんどの奴だよ。お前もう黙って勉強しろよ」

 橋本が新道に古い英語の本を投げつけた。新道は逃げ出した。

「なあ」

 そばで見ていた店主が息子に声をかけた。

「お前、本当に大学行かねえのか?」

「うるせえな。これ以上学校行ってどうすんだよ?無駄だろ?」

「金はあるんだぞ」

「行かねえって言ってるだろ!」

 橋本は怒鳴って、店の外に出ていった。これ以上自分を人々の好奇の目にさらしたくない。かといって髪を染めるのも嫌だ。一度やってみたことがあるが、不自然なうえにすぐ落ちてしまって、服に黒いものがついた。

 高校を卒業できるかも怪しいのに、大学なんて考えられない。橋本はすぐ気づいて立ち止まった。もうすぐ世の中に出なくてはいけない。しかし、自分は世の中に受け入れられるような人間ではない。ずっと店にいることはできる。一生あの店に。しかし、あの小さい店がいつまでもつだろう?世の中は変わっていくのに。

 橋本には、自分の将来が全く見えていなかった。

 希望は、どこを探しても見つからなかった。







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