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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年2月

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2017.2.16 木曜日 研究所


 神様、僕にこれ以上試練を与えないでください。


 朝目が覚めた瞬間に、久方は祈った。しかし、隣からは朝から容赦なく暗くて重いベートーベンが聴こえてきた。久方は着替えをつかんで1階に逃げた。猫達が自動運転の暖房の前にいた。


 この世に神はいない。


 久方は思った。神がいたら、こんなことばかり起こるはずがない。

 昔の辛いことを一つ一つ思い出していじけていると、結城が下に降りてきた。久方が一人でブツブツ言っているのを見て、自分で朝食を作り始めた。しかし、やはりトーストは黒焦げで、ウインナーは破裂し、オムレツは崩壊していた。




 午後3時。

 久方はようやく覚悟(というか、諦め)ができて、早紀と彼氏と、保坂(そういえば今日は木曜日だった。すっかり忘れていた)を笑顔で迎えることができた。

 高条は部屋に入ると、コートも脱がずにすぐソファーにいたシュネーを撮り始めた。シュネーが動こうとしないので、早紀が猫じゃらしを持ってきたが、シュネーは自分を撮っているスマホが気になるのか、高条の方を見て、たまにスマホに向かって猫パンチをくり出していた。


 かま猫はどこに行ったんですか?


 早紀が部屋を見回した。そういえば姿が見えない。朝はいたのに。早紀が廊下に出たので久方もついていった。地下も2階も回ったが、かま猫はいなかった。


 また隙間から外に出ちゃったのかな。

 今日は気温も高いし。


 久方は建物裏の割れ目も見に行ったが、かま猫はいなかった。

 中に戻ると、高条はシュネーと遊んでいる早紀を撮っていた。ああ、危ないなと久方は思った。その動画ネットにあげないでね、と言いたくなったが、たぶん言っても無駄だろうと思った。

 白い猫と遊ぶ早紀は、本当にきれいだ。かわいい。

 できれば自分が保管しておきたい光景だ。でもそれはよくない。しかし、早紀は動画を撮られるのが嫌いなはずだが、なぜ文句を言わないのだろう。やっぱり好きな人だからか。

 そうだろうな、彼氏だし。

 仲のよい2人を見て久方がたそがれていると、2階からまたガーシュインの、いつもとは別の曲が聞こえてきた。これは保坂だろう。

 みんな楽しそうだな。

 久方は思いながらキッチンに行った。一人になりたかった。早紀の気をそらしたかったのでポット君にコーヒーを持っていくように頼んで、自分は丸椅子に座ってぼんやりしていた。


 またここで一人かよ。


 橋本の声がした。


 お前も参加しろって。佐加が言ってただろ。


 あそこに僕は必要ないでしょう。

 2人で楽しそうにしてる。


 ここの持ち主はお前だぞ。お前はどこで何してたっていいんだよ。新橋の近くにいろよ。


 久方は黙っていた。声も沈黙した。早紀と高条が何か言って笑い合う声が聞こえた。

 ずっと遠くの出来事のようだ、全てが。

 窓から見える空は曇っていて、暗い。


 久方さん、何してるんですか?


 高条がキッチンにやってきた。スマホで撮影したまま。


 僕を撮るのやめてくれない?


 いや、でも気になる生態系なので。


 僕は新種の生物じゃないんだよ。


 なんでこんなとこ住んでるんですか?


 またストレートな質問を投げてきた。


 静かに暮らしたかったんだよ。それだけ。


 久方はそう答えた。詳しい話をこの男にする気は全くなかった。ああ、でも早紀は何でも知っているから、彼氏には話してしまうかもしれない。


 僕のこと、サキ君から何か聞いてる?


 幽霊のことくらいですね。


 高条がスマホを向けたまま答えた。


 高条君はどうして秋倉に来たの?


 親とケンカして家出したんですよ。


 正直に答えられて久方は驚いた。


 ちょっと、将来の話がかみ合わなくて。


 それ以上話したくなかったのか、高条は引っ込んだ。ピアノが止まり、階段を降りてくる足音がして、結城と保坂が『腹減った』と言いながらキッチンに入ってきた。結城は久方を見るなり、


 なんだ、また一人でいじけてんのか?


 と言ってニヤッと笑った。


 違うよ。あの2人はシュネーを撮りたいだけだから、僕は必要ないでしょ?


 いや所長、

 あの2人を2人っきりにしない方がいいですよ。


 保坂が言って、部屋に向かっていった。若者3人が話す声が聞こえてきた。


 俺ちょっとからかってやろうかな〜。


 結城がそう言いながら出ていった。久方も心配になってついていった。一体何をする気だろう?

 結城はシュネーを撮っている高条に近づくと、


 おお〜彼氏かっこいいな〜!


 わざとくさい声で叫んだ。


 ジャニーズに似た奴いるよね?名前思い出せないけど。最近人数多くて覚えきれないんだよな〜。


 高条は猫にスマホを向けたまま、ちらっと結城を見た。


 結城さん、男のアイドルもチェックしてるんですか?


 早紀が尋ねた。


 いや、テレビ見てたら普通に出てくるでしょ。


 それから結城は、最近話題になっている芸人の動画の話を始めた。高条も保坂もその動画を知っていたらしく、3人で話が盛り上がっていた。

 早紀は男子3人が仲良く話しているのを、少し離れた所で見ていたが、そのうちぷいっと背を向けて部屋の外に出てしまった。久方は後を追った。早紀は地下でお菓子をあさり始めた。


 冷蔵庫にアイスもあるよ。


 久方はどうでもいいことをつぶやいた。早紀が振り返った。


 どうして結城さんって、いっつも男子とばっかり仲良くするんでしょうね?やっぱり私を避けてるんだと思います?


 気になるのは結城なの?彼氏じゃなくて?


 久方が言うと、早紀は近くにあったマドレーヌの袋をつかんで、走っていってしまった。

 久方は『これはまずいような気がする』と思いながら、しばらく地下室にとどまっていた。早紀には彼氏がいるのに、結城のことをまだ気にしている。そのうち何かよくないことが起きそうな気がする。

 久方が1階に戻ると、みんな仲良くマドレーヌを食べていた。お菓子を取ってきたのは結城を釣るためだったのだろうか。なぜか高条はマドレーヌにかぶりつく保坂を撮影していた。何がしたいのだろう?

 若者3人のスマホが一斉に振動した。


 うわ、最悪っすよ。


 保坂が画面を見て顔をしかめた。


 杉浦が預かってる子の母親、遺体で見つかったそうです。川の下流で。







 一時間後。

 久方は自分の部屋に閉じこもっていた。若者3人がドアの前から呼びかけても出てこず、騒音であぶり出そうとして結城が超絶技巧なうるさい曲を弾きまくっても、ドアは開かない。


 すみません俺が悪かったっす。

 所長が繊細なの忘れてました。


 保坂が部屋から出てきた結城に謝った。


 いや、久方が気にしすぎなんだって。

 自分と関係ない話なのにさあ。


 結城は呆れていた。


 早紀はしばらくスマホをいじってから、


 あの子はおばあさんが引き取りに来たらしいですよ。とりあえず行く所はあるみたいですよ。

 所長〜!聞こえてます〜?


 久方の部屋のドアに向かって叫んだ。しかし返事がない。


 しばらく放っといてやれよ。そういや、新橋はもう帰る時間じゃないの?また平岸が怒鳴り込んでくるぞ。


 早紀は不満を顔に出したまま帰っていった。




 ねえ、どう思う?


 帰り道で高条が保坂に尋ねた。


 かわいそうだべ。まだ幼稚園だべや。


 いや、そっちじゃなくて。こっち。


 高条がスマホの画面を保坂に見せた。

 そこには、マドレーヌを食べている結城が映っていたが、画面が少し横にずれると、そこには、結城を熱烈な目で見つめている早紀の姿があった。


 これがどうかした?


 保坂はとぼけた。本当は何もかもわかっていたが。


 サキがここに来る理由ってこの人じゃないか?


 高条が言った。保坂は苦い含み笑いを浮かべた。『ああ、とうとう気づいちゃったのね』という顔で。


 猫じゃないんだよ。やばいな。

 やっぱここに来るのやめさせた方がいいよな。


 無理だべ。あいつここ自分の家だと思ってるべや。


 そうなの?


 そうだって。だから止めても無駄。


 でもさあ──


 気持ちはわかるけど難しいと思うよ。

 新橋と話し合えば?






 久方は自分の部屋でぼんやりしていた。カフェで見かけたあの男の子のことを思い出しながら。

 あの子はこれからどうやって生きていくのだろう?母親を失って。そして自分はなぜこんなに落ち込んでいるのだろう。


 おい、飯食いに行くぞ。


 結城がドアを乱暴に叩いた。


 一人で行ってよ。


 弁当買ってくる。


 足音が遠ざかった。久方はその後もしばらくぼんやりしていた。早紀から『大丈夫ですか?』と聞いてきたので、『大丈夫』と返した。しかし、何もする気になれなかった。もう外は暗くなっていた。暗闇。見覚えのある暗さだと思った。

 自分は世界で、ひとりぼっちだ。

 なぜかそういう感覚に襲われてどうしようもなくなることがある。あの子も今、この暗闇にいるのだろうか。しかしなぜこんなに気になるのか。

 理由はわかっていた。

 自分も捨てられたから、一人残されたからだ。似た話を聞くたびに傷口が開いてしまうのだ。自分でもどうしていいかわからない。こんなことでいちいち落ち込むのはよくない。それこそ大人のやることではない。わかってはいるのだが。


 神様、なぜですか。


 久方はいもしないであろう神に心で泣きついた。


 なぜこんなひどいことばかり起こるのですか。

 僕は──


 おい、弁当買ってきたぞ!


 乱暴なノック音で我に返った。帰ってくるのが早すぎると思って時計を見たら、もう一時間ほど経っていた。


 あんまり悩むなよ。お前の問題じゃないだろ?


 弁当を食べながら結城が言った。


 悩むんなら新橋のことで悩めよ。


 忘れかけていた早紀と彼氏のことを思い出してしまった。


 その話はやめてよ。


 あ、やっぱり気にしてんのか。

 まあいいよ。

 そういうことで悩むのはちゃんと生きてる証拠だから。


 結城はまた自分をガキ扱いしようとしている。久方は不満に思いつつ、出された油っぽい弁当はきちんと食べた。



 夜になって、早紀が、


 勇気が研究所に行くのやめてほしいって言ってるんですけど、どう思います?


 と聞いてきた。久方は悩んだ末、


 彼氏が嫌がってるなら、やめた方がいいと思う。


 と答えた。彼氏と仲良くされても嫌だが、結城と仲良くされるのはもっと辛いと判断した。

 どっちに転んでも、自分には希望がない。

 久方は姿が見えないかま猫を探した。もう自分に構ってくれるのは猫しかいない。いっそ自分も猫になってここに一生住み着いてやろうかと思った。廊下を歩き回っているうちに、自分も猫になれるんじゃないか。いつのまにか姿が変わって──そんな空想をしながら建物内をうろついたが、もちろん久方は猫にはならず、かま猫も見つからなかった。仕方ないので、暖房の前にいたシュネーを抱き上げて部屋に連れていき、一緒に毛布に入って寝た。







 


 

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