2017.2.9 木曜日 高谷修平
修平はベッドで横になっていた。全く動く気力がわかなかった。こういうことは昔はよくあったが、最近はなかった。また入院していた頃に戻ってしまうのではないかと不安を感じていた。
部屋の隅では新道先生が、腕を組んで壁に背をもたれるような姿勢で立っていた。昔を思い出しながら。
菅谷はあの後、約束を守ってくれただろうか。ナホちゃんと娘はどうしているだろう?二人とも、もうそれなりの歳になっているはず──いや、そんなことを気にしてはいけない。自分はもう死んだ身だ。それより──
「俺がこうしている間にも、みんなもっと意味のあることをしてるよね」
修平が言った。ああ、また始まった、と新道先生は思った。修平が、具合が悪い時によく言うセリフなのだ。『自分は寝ていることしかできないのに、みんなは何かを学んで先に進んでいく』病人なら誰もが思う悲しみだ。決しておかしな発想ではない。
『休むことにだって意味はきちんとありますよ』
新道先生は静かに言った。
『特に、休めば回復することがわかっている場合にはね』
「そうだけどさ〜」
修平がうめいた。
「でも、いつまでもこのままじゃいけないと思うんだよね」
これも最近修平がよく口にするセリフだ。意味は2つある。『こんなに弱い自分ではいけない』または『いつまでも先生に頼っているのはよくない』だ。
『このままではないでしょう。いずれよくなりますよ。そんなに悲観するものではありません』
「いや、そうじゃなくて」
修平は少し起き上がった。
「先生、前に『自分が何者かわからない』って言ってたよね?そこだと思うんだよ。俺達が解決しなきゃいけないのは」
『しかしそれは──どう解決するんですか?』
「初島にもっと聞いておくんだった。そこんとこも」
『修平君、それは危険です』
「危険かもしれないけど、そこは避けて通れないと思うよ」
修平はまた横になって深く息を吐いた。
「もう久方さんの前に現れてんでしょ?夢の中だけど。いずれ向き合わなきゃいけない日が来そうだなって俺は思う」
スマホが鳴った。保坂から『大丈夫?』という文言と共に、今日の分のノートがPDFで送られてきていた。修平が休むと必ず板書をデータにして送ってくれるのだ。
「やばい今日けっこう進んでる」
修平がPDFを見ながら言った。
『今日は休んだ方がいいですよ。治るのが遅くなるとかえって遅れます』
新道先生は一応忠告したが、修平が言うことを聞かないのはわかっていた。勉強だけでもきちんとやりたい。それは修平が昔から言っていることだったから。
「高谷、起きてる?」
ヨギナミがドアをノックする音で、修平は目を覚ました。PDFを見ながら、いつのまにか眠ってしまったらしい。
「平岸ママが、今日は夕飯食べれるか聞いてる」
「何が出るかによる」
「カレイの煮つけ」
「あーそれ俺は大丈夫だけどあかねが文句言うやつじゃない?」
「もう言ってる。『煮物嫌いって言ってるでしょ!』って」
「あ〜」
修平は迷った。みんなと食べたいが、今あのキンキン声を聞きたくない。
「部屋で食べるって言っといてくれない?」
「わかった。あとね、相談があるんだけど」
「何?」
「サキに取りついてる幽霊のこと」
「奈々子さん?」
「月曜に会ったの」
ヨギナミは月曜の夜の話をした。奈々子はやはり『歌いたい』と言い、それから『誰かと理解し合ったことがない』とも言ったらしい。
「だから、歌わせてあげるか、誰か、彼女を理解してあげられる人がいればいいんじゃないかと思うんだけど、それをサキに言うと──」
「キレるよね〜」
修平は頭を軽く引っかいた。
「ていうか今日何曜日?木曜?もっも早く教えてよ」
「ごめん。いろいろ忙しかったから」
「あ、そっか。そうだよな〜。でもどうすっかな。俺が話すとサキは聞かないし、久方さんに相談してみっかな。一番言うこと聞きそうだし」
「じゃ私、夕飯取ってくる」
ヨギナミが出ていった。修平はなんとなく申し訳ない気持ちになってきた。平岸ママや早紀だったらなんとも思わないのだが、ヨギナミは平岸家に気を遣いすぎているのではないだろうか。
夕食を食べた後、修平は自分で食器を下げに行った。
「あら、置いといてくれれば回収しに行ったのに」
平岸ママが修平を見て笑った。
「調子はどう?」
「だいぶよくなりました」
修平は言った。本当はまだだるかったのだが。
「あらよかった。私はこれからあさみの所に行くから」
「ヨギナミのお母さん、やっぱり悪いんですか」
「目を覚ましてくれないのよね。悲しいことに」
「あの、こう言うと怒られそうなんですけど、意識がなくても付き添いって必要なんですか?まわりの負担になってませんか?」
「あさみは寂しがり屋だし、常に話しかけてれば目を覚ますかもしれないのよ。私達はまだ諦めてないの」
平岸ママは明るく言ってから出ていった。修平は食卓テーブルに座って、しばらくぼんやりと考えていた。自分にその時が来たら──やはりまわりに負担をかけてしまうだろうかと。いや、今までだってほとんど入院していたし、意識がなくなったことも何度もある。その度にまわりの人は──特に父と母は──どう感じていたのだろう?これからそういうことが起きたら、平岸家の人々は、クラスの人達は、どう感じてしまうだろう。
「何ボンヤリしてんのよ」
機嫌の悪そうな平岸あかねが現れた。
「何でもないよ」
修平は立ち上がって出ていこうとした。今は変な妄想を聞かされたくない。
「サキに取りついてる魔女なんだけど」
あかねが言い出した。修平は立ち止まった。
「今日、授業中に出てたわよ」
「マジ?」
「何も言わなかったけどあれはサキじゃないと思うわ。数学の時間に寝ないでノートきちんと取って、時々ちらっとこっちを見るの。当てられてもちゃんと答えてたけど、口調が変だった」
「そっか」
「どうやって追い出せばいいと思う?あの魔女」
「奈々子さんは魔女じゃない。たぶん、理解してあげた方がいいと思う」
「理解?人を乗っ取ってる幽霊を?」
「たぶん、サキみたいに嫌ってるだけだと何も解決しない」
「ああ、佐加も言ってたわね。『歌わせてあげた方がよくね?』って」
「そこなんだよな。説得できない?」
「あたしの言うことをサキが聞くと思う?」
「俺よりは聞くでしょ」
「あんたよりはね。比べるまでもないわ。でもこの問題に関しては、サキは誰の忠告も聞かないと思うわよ。高条に言ってみようかな。一応彼氏だし」
「一応ね」
修平は苦笑いした。
「あの2人、やっぱ相性よくないと思う?」
「結城さんと付き合われるよりはマシよ。サキの行動って危ないもの。なんの疑いもなく大人にすり寄ってっちゃって、子犬みたい」
「だよね〜」
修平は話をここで切り上げて部屋に戻った。高条にこの件を相談すると、『サキが嫌がることはさせたくない』と言われた。使えない奴だと思いながら修平はベッドに入り、すぐに寝てしまった。
新道先生は先程と同じ位置で、天井を見上げながら考えていた。以前ほど自分の力が修平に届かなくなっている。本人が『自分の力で生きたい』と願い始めたからだ。
しかし、今の修平に、
自力で生きのびる力があるのかどうか──。




