2017.2.9 1999年
新道先生が入院した、と代わりの先生が言った。
クラス全体に衝撃が走った。
「この受験前に?担任変わるの?ありえなくない?」
移動のとき元子が言った。奈々子は黙っていた。でも、悪い予感がした。
あの人のせいではないだろうか?と。
数日後、奈々子は病院にお見舞いに行った。大きな病気をしたことも入院したこともなく、初めて入る『大病院』という空間はやけに恐ろしく感じられた。長い廊下を抜けて、おそるおそる教えられた方向に進んでいくと、新道先生がいた。
「ああ、来てくれたんですね」
顔色のよくない先生は、それでも元気そうに笑った。サイドテーブルや窓際には、花や果物、お菓子がたくさん置いてあった。かなりの人数が見舞いに来たに違いない。この先生は人気があるから。
「すみません。何も持ってきませんでした」
奈々子は気まずくそう言った。
「いいんです。いいんですよ」
先生は読んでいた本を置いた。題名は見えなかったが、河合隼雄の本のようだった。
「具合、どうですか?」
「正直に言うと、あまりよくないんですよ」
新道先生は申し訳なさそうに言った。
「受験前にこんなことになってすまない」
「いいんですそれは」
本当は全然よくないのだが、奈々子はそう答えた。
「先生に聞きたいことがあるんですが」
「何でしょうか」
「橋本のことです」
奈々子がはっきり言うと、新道先生は少しの間動きを止め、それから目を閉じて、深いため息をついた。
「初島も子供も、見つかりませんでした。もうあの家にはいないようです」
先生は目を閉じたまま話し始めた。
「橋本は私の親友でした。私が本を読むようになったのはあの古書店があったからです。初島も仲間の一人で、私達はしょっちゅうつるんで遊んでいました。でも、いろいろあって──橋本が突然、亡くなりました」
「なぜ?」
「古いビルの最上階から転落したんです。事故なのか自殺なのか、誰にもわかりませんでした。遺書もなかったので。その後、初島は行方不明になり、ずっと居場所がわかりませんでした。まさか──」
新道先生は目を閉じたまま顔をしかめた。
「子供を犠牲にして、死者を蘇らせようとするとは」
「私の話、信じてくれるんですね」
奈々子は言った。
「創くん本人に会っても、バカにして信じない人もいるのに」
奈々子が思い出したのはナギのことだった。
「信じますよ。神崎さんは嘘をつくのが苦手でしょう?」
「わかりますか?」
「わかります。すぐ顔に出ますよね、気分が」
「自覚はしてるんですけど、はっきり言われると恥ずかしいです」
奈々子は顔を赤らめて横を向いた。新道先生は目を開けて笑った。
「私も神崎さんに聞きたいことがあります」
「何ですか?」
「進路です。大学の人文学部でしたよね」
「はい。北海道で心理学をやってるのはそこだけなので」
「本当に、それでいいのですか?」
新道先生が、深い目と声で尋ねた。
「私が思うに、神崎さんには、他にやりたいことがあるのではないでしょうか。でも、その道は難しい。だから、今流行りの道に行こうとしている。そのように見えるのですが」
歌だ。
奈々子は思った。
この先生、やっぱり気づくんだ。そういうことに。
「私はカウンセラーになりたいんです。本当にそれだけです」
奈々子ら強く言い返した。音楽教室には行かなくなっていた。もう歌はやめて、大学の勉強に専念するつもりだった。
「そうですか。それなら私はもう何も言いません」
先生はそれから、学校の生徒達の様子を尋ね、奈々子はできるだけ客観的に答えた。やはり、受験直前に学校を離れたことをひどく気にしているようだった。
「私達は大丈夫ですから、先生は治療に専念してください」
奈々子は何度もそう言わなくてはいけなかった。そのうち、別な客──先生の学生時代の友人──が来たので、奈々子はその場を離れた。
「今のは生徒か?きれいな子だな」
菅谷誠一が、出ていった女の子を目で追いながら尋ねた。
「そうだよ。今受験生だ」
新道が答えた。
「人気者だな、いつ来ても誰かがいる」
「そんなことはない」
「いや、お前は昔からそうだ。誰にでも好かれる」
菅谷は軽く笑ってから、真面目な顔になり、
「あの子、見つかった」
と言った。新道が驚いて目を見開いた。
「初島の奴、神戸の倉庫に子供を置いて行方をくらましたんだよ。倉庫の持ち主が発見したらしい。危うく飢え死にするところだったそうだ。全く、あいつは一体何を考えてるんだ?」
声には怒りがこもっていた。
「初島は?」
「見つからない。また行方不明だ」
「そうか」
予想していたことだが、新道は落胆していた。
「養護施設に入れる手続きをしようとしたんだが、倉庫の持ち主の奥さんが反対してね。何でか知らないが『この子はウチの子や!』って言いはるんだよ。役所に手続きしたいから協力しろと言ってきている。これが2人揃ってうるさい夫婦でな、前から子供が欲しいと思ってたけど妻は産めないからどうとか、震災の復興がまだ終わってなくて大変だとか、いろいろ苦労話を聞かされたよ。どう思う?」
「その方々がいい方なら、施設送りよりはマシだろうね」
「どうだかな。そもそも初島がきちんと出生届を出したかどうかも怪しい。これから役所に行って調べてくる。あ、これ土産な。さっき愛果ちゃんにも渡してきた」
「わざわざ行ってくれてありがとう」
「何を言ってる、大したことじゃない」
「菅谷、もう一つ頼みがある」
「何だ?」
「俺が死んだら、ナホちゃんと愛果を頼む」
「何を言ってる、縁起でもないことを言うなよ」
「いや、わかるんだ。俺はもう長くない」
新道は菅谷の目を真っ直ぐに見た。絶対に嘘をつかない目。菅谷はしばしうろたえたが、動揺を隠すように平静を装って、
「わかった。何も心配するな」
と答えた。




