2017.2.6 月曜日 ヨギナミ 病院→松井カフェ
ヨギナミは午前中だけ学校を休み、母のいる病院へ行った。行ったところで目を覚まさないのだが、一応話しかけた方がよいと言われていた。しかし、何を話していいのかよくわからず、母の顔を見れば見るほど、言葉は喉の奥に沈んで出てこない。
そのうちおっさんが来た。おっさんは母の手を握り、耳元で熱心に何かを語っていた。顔が近すぎて、そのままキスをしてしまうのではないかとヨギナミは想像し、一人顔を赤らめていた。
最近あいつ、俺に指図すんだよ。
もっと出かけろとか、
遊んだ方がいいんじゃないかとか。
自分でやれよって。
松井カフェでおっさんが言った。今日も『カフェでヨギナミと話をしたら?』と言われたらしい。久方創に。
おっさんがあまり自分のこと話さないからじゃない?
ヨギナミは言った。
おっさん、誰かと話す時、絶対『お前、なんとかかんとか』って『お前』って言うよね。今はお前の話をしてるんだぞって。いっつも相手の話ばかりしてない?所長さんと話す時もそうなの?
おっさんはちょっと考えてから、
そうかもな。でも、俺にはもう自分の人生はないから、話すことはないんだ。
じゃあ、お母さんには何を話してるの?声が小さくてよく聞こえなかったんだけど。
それはこっちの話だよ。
おっさんが照れた様子を見せた。
こっちの話って自分の話?
あさみの話もするよ。
お母さんの?何を?
あの母に関して話すことなどあるのだろうか。おっさんが母と知り合ったのはいつ頃だったか。一年くらいあっただろうか、話す機会は。それで何がわかったと言うのだろう?
あさみがいてくれたおかげで、俺は救われたって。
おっさんが目をやや横にそらしながら言った。
俺の存在を認めてくれたからな。
そうなんだ。
松井カフェに客が入ってきた。それは奈良のとっつぁんと近所のおじさん達だった。彼らはおっさんを見て喜び、陽気に話しかけると、『パチンコ!パチンコ行くべ!』と言ってどこかへ連れて行ってしまった。
パチンコはやめた方がいいと思うけどなあ。
一人残されたヨギナミはつぶやいた。それを聞いた松井マスターが微笑んで、おっさんの席に残されたコーヒーカップと千円札を回収した。
平岸家で昼食を食べてから学校に向かい、午後の授業を受けた。帰りにまた佐加と話をした。早紀はどこかへ行ってしまったようだ。所長の所だろうか。
おっさん、本当にヨギママが好きなんだね〜。
今日の話をすると、佐加が言った。
ヨギママ、目を覚まさないかな。本当に可能性ないの?
よく、重症の人に話しかけ続けてたら目覚めたとか、テレビでやってない?
佐加はまだ希望を持っているようだ。でもヨギナミは、その可能性はないと思っていた。
佐加と別れてから平岸パパの車でレストランに行き、いつもどおりの仕事をこなした。
バイトから帰ったら、アパートのドアの前に早紀がいて、
所長から聞いた。
と言った。でもそれだけで、何も話さずに部屋に戻っていってしまった。
ヨギナミも部屋に戻り、試験勉強をしてから眠った。
夜中。
ドアの開く音がどこかから響いてきた。隣ではない。ヨギナミは少し考えてから、早紀が外に出たのではと思い、起きてコートを着て外に出た。予想どおりだった。暗闇の手前に、早紀が立っていた。いや、本人ではなく、幽霊かもしれない。
どこに行くの?
ヨギナミは声をかけた。早紀はゆっくりと振り向いて、不思議なものを見る目でヨギナミを見た。
研究所の鍵、持ってない?
早紀ではなさそうな話し方だ。
鍵は高谷が持ってます。
ヨギナミは嘘をついた。本当は自分が預かって棚の奥に隠してあった。
高谷は体調が悪いから、今起こしてはダメ。
そう言うと、早紀らしき人がうつむいた。
あなたは、幽霊?
ヨギナミは尋ねた。
あなたと話すのは初めてね。
幽霊は、早紀らしくない落ち着いた声で言った。
寒いから、部屋に戻って。
ヨギナミが言うと、幽霊は大人しく従った。ただし、早紀の部屋ではなく、ヨギナミの部屋の前で立ち止まった。
どうしたの?
聞いてみたが、答えはない。ただ、暗い顔で下を向いている。
誰かと話したいんだ。
ヨギナミは思いつきで言ってみた。すると、幽霊はうなずいた。仕方ない。ヨギナミはドアの鍵を開け、幽霊を中に入れると、ストーブをつけた。今日は眠れそうにないなと思った。幸い、明日はバイトは休みだ。
きれいに片付いてる。サキの部屋とは大違い。
幽霊が部屋を見回して余計なことを言った。早紀の部屋が物だらけなのはヨギナミも知っていた。ネットでいろんなものを衝動買いできるくらい裕福だからだ。
幽霊はベッドの端に座って、行儀よく両足を揃えて手を膝の上に置いた。やっぱりこれは早紀じゃない。ヨギナミは思った。早紀はもっと動作が開けっ広げだから。
あなたは、誰?
ヨギナミが尋ねると、幽霊は『神崎奈々子』と答えてから、身の上を語りだした。札幌に住んでいたこと、円山小学校に通っていたこと、その当時から母と妹が乱暴でヒステリックだったので、中学の頃には家に帰りたくなくなっていたこと、高校はわざと遠くを選んだこと、学校の周りが牧場で、一面の草原だったこと、大通をふらつくようになったこと、修二やナギに出会ったこと──それから、幽霊に取りつかれた男の子に出会ったこと。
それ、所長さんだよね。
ヨギナミは、高谷修平やおっさんから聞いた話を思い出していた。初島の暴力から逃げるために街中をうろついていたという話を。
うん、そう。でも私、余計なことしたかも。
幽霊、奈々子がうつむいた。
なぜ?助けようとしたんでしょ?
ヨギナミが問いかけたが、奈々子は黙った。
少し間をおいてから、
今度は、ヨギナミの話聞かせて。
と言われた。ヨギナミは困った。話すことが思いつかなかったからだ。
とりあえず今は、ここに住んでるんだよね?
ヨギナミが止まってしまったので、奈々子が尋ねた。
そう。生活費がなくなったから、平岸ママに助けてもらった。
言いながらヨギナミは悲しみを覚えた。本当はこんなのはよくない。早く自立しなくては。
いい人達だよね、ここの人。
奈々子が言った。
夜中に頼っちゃった私が言うのもなんだけど、あなたは人のために時間を使いすぎね。
そうかな。
そうだと思うよ。
人の世話してるとそうなりがちだよね。私も妹の世話させられてたからわかる。自分より相手のことを優先する癖がついちゃうの。その方がもめなくてすむから。でも、今思うと、もっと言いたいことを言っておけばよかったかも。
あなたの未練って何?
ヨギナミははっきりとした声で尋ねた。
サキがよく話してる。歌わせてあげたらってみんなに言われてるけど自分は嫌だって。
奈々子は少し考えてから、
歌いたい。
と答えた。
ステージで、みんなの前で歌いたい。
と言った。それから、
あと、人と心からわかり合いたい。
生きている頃はそれができなかったから。
切実な声だった。涙で少しくぐもっていた。
そのわかり合いたい相手って、結城さん?
ヨギナミが尋ねたが、
私もう戻って、サキを寝かさなきゃね。
奈々子は立ち上がった。
ちゃんと寝ておかないと、この子、授業中に寝ちゃうの。先生のど真ん前の席にいるのに。
奈々子はドアを開けてから振り返り、
ありがとう。
と言ってから出ていった。
やっぱり結城さんと何かあるんだ。
ヨギナミは思った。それに、やっぱり歌いたいらしい。早紀は怒るだろうけど、やはり佐加が言うように、一度歌わせてあげた方がいいのではないだろうか。
ヨギナミはベッドに戻ったが、いろいろ考えてしまってなかなか眠れなかった。『生きていた頃は人とわかり合えなかった』と言われたのが気になった。
自分は、誰かとわかり合っているだろうか?
そんな体験は確かに、自分もしていない。そう思わざるを得なかった。
母とおっさんは、わかり合っているのだろうか?
佐加と藤木は。
いや、人のことよりも、自分は?
杉浦はどうだろう?
そもそも、何をどうしたらわかり合ったことになるの?
ヨギナミは何度も寝返りをうって、そのことを考え続けた。




