2017.2.2 木曜日 研究所
できれば一生眠りについていたい。しかし、朝6時のピアノ攻撃は容赦なく暗いショパンを響かせてくる。
久方は重い足取りで、着替えを持って1階に逃げた。
朝食を終えてしばらくしてから、今日は橋本が出てこないことに気づいた。呼びかけても『今日はいい』と返ってくるだけだ。いいのだろうか。昨日見たあさみはとても顔色が悪くて、そばにいた方がいいのではないかと思うのだが。
でも、僕が行くのも変だしなあ。
久方はそう思いながらパソコンに向かっていた。Facebookにはあの後も何人か、学生時代の仲間が集まってきていた。しかし、みんな楽しそう、あるいは忙しそうだ。みんなの書いた記事を読んでいると、やはり、自分だけ外に取り残された感覚が否めない。
佐加は『自分で参加しようとしろ』とか言ってたけど──何に?
久方にはそれがよくわからなかった。他人のページにむやみに意見するのもよくないように思われるし、議論するのも苦手だ。
とりあえず仕事に戻ることにした。仕事、そうだ、人から分けてもらった仕事でなんとか生きてはいるが、これがいつまでも続くとは思わない方がいい。
やはりいつか、都会の、人の中に戻って働かなくてはいけない日が来るだろう。前より穏やかに暮らせるようになったとはいえ、自分の不安定な性質には代わりはない。本当にやっていけるのか。久方には全く自信がなかった。
今日は雪だ。風も強い。外に出ないほうがいい天気だ。きっと早紀は来ない。いや、天気がどうなろうと今は彼氏がいるのだから、ここに来るどころではないだろう。でも久方はそのことを考えたくなかった。全て天気のせいにしておきたかった。
ポット君と一緒に何度か雪かきに出て、疲れてソファーにぐったりしていると、かま猫が近づいてきた。シュネーがかま猫の上に来て、背中を舐めて毛づくろいしてあげていた。仲が良さそうだ。
うらやましいよ。
久方はつぶやいた。天井からはまたラヴェルが響き出した。おそらく天気を見て、今日は早紀は来ないと判断したのだろう。
とにかく何でも天候のせいだ。そう思いたい。
久方は苛立たしいほど速いテンポの『クープランの墓』を聴きながら、奈々子がなぜこの曲にこだわるのか考えた。たまたまラジオで聴いて魅了されてしまったから、それだけだ。それだけのことが後々結城や、まわりにいる人にまで影響を与えている。
単なる個人の好みが、周りの世界を変えている。
人の『個人』の範囲はどこまでなのだろう?ごく個人的な好みまで他人に関係があるのなら、そもそも完全に『個人的な』ことなど、この世にあるのだろうか。
自分がこんな風に思い悩んでいることも、誰かの人生を変えるのだろうか。
いや、それはなさそうだ。こんな世の中と隔絶した場所で一人でいても。そもそも自分は人に影響を与えたいと思っていないし──今までいろんなものに否応なしに与えられた影響の怖さを考えると──他人を変えるようなことは、したくない。
僕は、
サキ君に悪い影響を与えてしまったかもしれない。
久方は思った。実際、早紀本人が言っていたではないか。『どうしてこんな田舎に来ちゃったんだろう』と。そして、あのカフェの孫と引き会わせてしまった。
ああ、もうやだ、考えたくない。
久方はソファーの上でうめいた。ピアノの音と、上に乗ってきた猫達の重み。自分はまだ生きている。だからこういうことを感じたり聴いたりできるのだ。それがありがたいことだというのはよくわかっている。
今日何度目かわからない雪かきに出ていると、雪の中から人影が近づいてきた。早紀かと思ってよく見たら、それは保坂だった。
ああ、今日は木曜か。すっかり忘れてた。
久方が先に声をかけると、保坂は笑って『ちわっす』と小声で言った。
保坂が2階に行くとラヴェルがピタッと止まり、代わりにガーシュインが鳴り出した。うるさいのは同じだが、建物内の雰囲気はいくらかマシになった。久方は一人でコーヒーを飲みながら『サキ君がここにいたらいいのに』とぼんやり考え、すぐに彼氏のことを思い出して頭を振った。
勇気と新橋は合わないっすよ。
夕食。またチャーハンに挑戦して、普通に上手く作った保坂が、食べながらそんなことを言い出した。
勇気は動画一筋なんすけど、新橋は撮られるの嫌いで、今日も『撮るな!』って騒いでたんすよ学校で。
それは嫌でしょう。勝手に撮られたら。
久方は早紀に同情して言った。
でも新橋は動画どころかネット自体嫌ってる感じするんすよ。LINEすら最近まで使ってなかったらしいすよ。Twitterも怖いからアカウント消したとか言ってるし。なんかあったのかな。
それは前の学校でいじめがあったからだ。久方は知っていたが黙っていた。
俺もおかしいな〜今時の若者にしてはって思ってたんだよね。
結城が言った。
アイドル嫌いらしいし。
それはお前のせいだ。
久方は反射で言ってしまった。結城が嫌な顔をし、保坂は『え?何?』という顔で久方を見た。
結城がアイドルばっかり見てるから、アイドルが嫌いって言い出したんだよ。サキ君がいるときに、アイドルの番組ばっかり見てたりするだろ?あれ何?わざとやってんの?
結城さんアイドル好きなんすか?見えないすね。
保坂が真面目に言った。
アイドルが嫌いな男なんてこの世にいないだろぉ?
結城が言った。保坂が笑って、自分が好きな女性グループの話を始めた。久方はそれらを全て無視した。
それより若者、久方に説教してくれよ。
本当は新橋が好きなくせに、
彼氏が出てきたから弱気になっちゃってさあ。
結城が言った。明らかにバカにした口調だった。
僕とサキ君はそんなんじゃない。からかうのはやめて。
久方は食器を片付けにキッチンに逃げた。結城が保坂に余計なことをいろいろ話しているのが聞こえた。
結城め、なんてこと言うんだ!
学校で言いふらされたらどうするんだ。
もし早紀に『所長、私のこと好きなんですか?』とか聞かれたらどうしたらいいんだ──
ポケットのスマホが振動した。久方はビクッと体を震わせた後、おそるおそる画面を開いた。
パフェの試作品です。
ふざけてたらすごいことになりました!
これ何人分あると思います?
早紀からだった。金属のボウルに山盛りになったフルーツとクリーム、アイスの画像もあった。
それはパフェとは言わないよもう。
久方はそう返した。早紀は今誰と一緒にいるのだろう?もう平岸家に帰っている頃だろうか。それとも、この雪の中を彼氏のカフェに行ったのだろうか。
ああ、もう嫌だ!!
久方はしゃがんで手で顔を覆った。
やっぱりこのまま消えてしまいたい。
洗うの手伝いますか?
後ろに保坂がいた。久方は慌てて立ち上がった。
いや、大丈夫。
あの〜。
保坂が言った。
俺、勇気の友達なんで、あの2人の邪魔はできないんすけど、ここでタダメシ食った期間も長いし、協力できることはするんで。
保坂は、いたずらっぽくニヤッと笑っていた。
ああもう、何もかも知られている。
久方は走って逃げたくなった。
今日聞いた話は誰にも言わないで。
なんとかそれだけ言うと、久方は皿洗いを再開した。誰とも目を合わせたくなかった。
了解っす。
保坂はそう答えてから、皿を拭くのを手伝った。




