2017.1.31 火曜日 研究所 どこかの森の中
つまり新橋さんは、高谷にカギを取られたまま返してもらえないから、今日ずっとキレて叫びながら走り回っていたというわけか。
杉浦が言った。ヨギナミはうなずき、佐加は『サキかわいそ〜』と言った。藤木は黙って3人の前を歩いていた。この4人、つまり第1グループは今、研究所に向かって歩いていた。ヨギナミのバイトが休みで、かつ、杉浦が久方に会いたがったからだった。
カッパそのうちサキに殺されて、
鍵奪い取られるんじゃね?
佐加がニヤニヤしながら言った。ヨギナミは、今日帰ったら夕食の席で何が起こるか想像してゆううつになっていたが、顔には出さないようにしていた。きっと今夜、サキは荒れる。私の部屋に愚痴を言いに来るかもしれない。どうしよう。勉強したいのに。
雪が少々ちらつく中、4人は玄関にたどり着き、インターホンを押した。出てきたのは結城で、4人を見てけげんな顔をした。
今、久方はいないぞ。幽霊ならいるけどな。
結城が言ったのでヨギナミは驚いた。
おっさんが?
佐加が言った。
おっさんって。
結城が笑った。
それは興味深い。
もう一度冷静に話したいと思っていたんですよ。
杉浦が言った。藤木が下を向いた。何か起こされそうな予感がしたからだ。
おっさんいる〜?
佐加が遠慮なく結城を押しのけて中に入っていってしまった。それで、結城は仕方なく、残り3人も中に入れた。
おっさんはキャビネットの横に置かれた小さな棚と、その上に置かれた黒いリュックをじっと見ていた。
おう。
おっさんはヨギナミに気づくと声を上げて笑ったが、隣の杉浦を見て顔をしかめた。
今日は学校のグループで来たの。
藤木に会ったことあったっけ?
ヨギナミは藤木を紹介し、藤木はていねいにあいさつしてお辞儀をした。おっさんは『お前、でかいな』と驚いているようだった。
これいいやつじゃね?高そう。
佐加がリュックに触って言った。
それな、創がくれたんだよ。そこの棚と一緒に。
おっさんが言った。グループ一同が驚いた。
もらったものを置く場所がいるし、出かけることもあるだろうってさっきまで言ってたんだよ。
それが、その説明の後、急に引っ込んじまって。
おっさんは何か考えているようだったが、
きっとリュック試してみろってことじゃね?ほら!
何も考えない佐加が、リュックを手にとって無理やりおっさんに背負わせた。
なんか大きさがアンバランス。まあいいや。
せっかくだから、マンボー行かね?景品たくさん取ってそれに入れたらいいじゃん。
ゲーセンはやめた方が──
ヨギナミが言った。
それよりこの棚に本を入れたらどうですか。
杉浦がしゃがんで、棚の中をのぞきながら言った。
この高さは少々大きめの文庫本が入る大きさだ。僕だったら、ちくま書房の小さい文学全集を並べて、そうだな、下には単行本が入りそうだから──
杉浦に棚を見せるのは危険ですよ。
藤木がおっさんに小声で忠告した。
勝手に本を持ってきて並べ始めますよ!俺も一回被害にあったことが──
いや、本はいいよ。生きてる頃にさんざん読んだ。
おっさんが言った。ヨギナミはあれ?と思った。家に来たときも見つけた本は読みあさるくらい活字が好きなはずなのに。
それよりどっか買い物行こうよ〜!
これに何か入れたいしさ〜。
佐加は出かけたくてウズウズしているようだ。
いや、俺は、この時間に創が自分から引っ込んだのが気になるんだよ。あいつは俺に気を遣いすぎだ。まるで、今でもこの体の主は俺だと思っているみたいだ。
それはまずいんだよ。
所長さん今ここにいるの?
ヨギナミが尋ねた。
それだよ。いないんだよ。気配が全くしない。
ここで心配してても出てこないと思うよ。
それよりどっか遊びに行こうよ。
そのうち所長も戻ってくるって!
佐加が言った。
遊ぶのはともかく、
少し外を歩くのはいいかもしれませんよ。
杉浦が言った。おっさんは嫌そうな顔をしていたが、5人で外に出ることにした。雪はやんでいたが、まだ空は雲に覆われていた。
おっさんはいつもより歩くのが遅かった。時々立ち止まったり、手や足を変な風に見たり動かしたりしていた。
どうしたの?
ヨギナミが尋ねた。
体の調子がおかしいんだよ。こわばってるっていうか。
創の気配がなくなったのと関係があるのかもな。
あいつ大丈夫かな。
大丈夫?とりまカフェまで歩けそう?
佐加が尋ねた。おっさんは『たぶん』と答えて、何か考えるように目線を横に向けた。
その頃久方創が何をしていたかというと、なぜかまたあのモノクロの森にいた。来てはいけないと高谷修平や新道先生に言われていたのに、いつの間にかそこにいた。さっきまで1階で、橋本に棚とリュックの説明をしていたはずなのだが。あまりに急に来てしまったせいで、本人も驚いてしばらく止まっていた。
ああ、また感覚がない。
久方はそう思いながら、目の前にある道のような草の分かれ目を進んだ。『誰かいますか』と声を上げたいのに、言葉が出てこない。喉の感覚すらない。まるで夢の中のようだ。
進んでいると、視界の隅に、色のついたものが見えた。白黒の世界に、肌の色と深緑のスーツの色だけが鮮やかに浮かび上がった。
初島緑だった。
夢の中でしか見たことがない(昔のことは覚えていない!)のに、見た瞬間にわかった。かつて自分に暴力を振るい、罵倒し、存在を全否定してきたあの人だ。
初島は、ゆっくりと近づいてきた。
久方は動けなかった。逃げたいのに意識が動かない。ここにいてはだめだと、頭の隅で何かが叫んでいるのに、こうなることは決まっていたような気もする。
憎悪に満ちた目が久方をとらえた。言葉は発さなかったが、視線と表情は自分を責めている。
なぜお前が存在している?
なぜもう一人ではない?
お前は早く消えるべきなのに──
ごめんなさい。
なぜか久方はそう言っていた。
僕にはどうにもできない。
だって、気がついたら生まれてきてたんだもの。
僕は元々僕だったんだもの。
初島はなおも黙って、否定的な視線を送り続ける。カラーの全身が、久方の存在を拒否している。まるで、世界全体を代表して、『お前の存在を認めない』と言っているかのようだ。
久方さん!初島から離れてください!
上空から声がしたかと思うと、強い風に吹き飛ばされた。黒い木々を何本も飛び越え、久方の体は森の中に落ち、草に埋もれた。そこから這い出した時、初島の姿は消えていた。
代わりに現れたのは、新道先生だった。長身がまっすぐ立って、腕を組んで久方を見下ろしていた。
帰りましょう。
先生は言った。
本当ならここで教育的指導をするところですが、修平君に『怖いからそれだけはやめて』と懇願されましたし、私がここに長くいると修平君が体調を崩しますから。
嫌です。僕は帰りたくない!
久方は草の上にうずくまったまま叫んだ。
やっと母さんに会えたのに!どうして邪魔するんですか!僕は本来あるべき所に戻ってきただけです。
僕は存在してはいけないんです。
だって、そうしないと母さんが──
久方はそこでハッと我に返った。『こうしないと母さんが──』どうなるというのだ。自分がなぜこんな言葉を発しているのか、久方はわかっていなかった。
何を言っているんですか?
新道先生は呆れていた。
前にも言ったでしょう?一度生まれてきたものは何があろうと生きていていいのだと。
久方さん。あなたはまだ基本的なことを理解していない。まず自分がここに存在していることを認めてください。それができないと、他に何をやっても上手く行きませんよ。
簡単に言うな!
久方は叫んだ。新道先生は苦笑いした。
わかっていますよ、簡単ではないということは。私もかつては非常に悩んだものです。なにせ両親のいない、空中からわき出たような生まれなのでね。しかし──
新道先生が近づいてきて、しゃがみ、久方の顔をのぞいた。
僕はもう生きていたくない。
久方は言った。
あなたは初島に会ったせいで、一時的に動揺しているだけですよ。
新道先生は優しく言った。
違うよ。僕は昔からこうだった。いつも不安で、『なんでいっつもそんなにビクビクしとる?』ってよく聞かれた。いつだって僕は──
神戸のご両親のことは忘れてしまいましたか?
新道先生が言った。久方は黙った。そうだ、あの人達は僕のことを心配している。だけど──。
僕はあの2人の子供になりたかった。
久方はつぶやいた。
でもどこも似てない。あの2人は明るくて強いのに、僕は暗くて弱いんだ。どうあがいてもあの人の子供なんだ。
それは違いますよ。久方さん。人と比べるのは良くないですが、あえて修平君の話をします。
修平君も『もう生きていたくない!』と言って泣いていたことがあります。あれは確か8歳で、病状が非常に重い時でした。
久方は顔を上げた。新道先生はなぜか誇らしげに笑っていた。
修平君は昔から人に気を遣う子でね、ご両親が近くにいる時は、どんなに具合が悪くても明るく振る舞うんですよ。でも、お父さんもお母さんも来れなくて、一人になる時があります。そうなると、夜にね、私に向かって言うんです。『苦しい。生きているのが辛い。いっそもう死んでしまいたい』とね。退院の目処も立たず、病室から出られない日が続いていたので、普通の子のように、将来を想像することもできなかったんでしょう。
私は、何を言ってあげればいいか、わかりませんでした。今でもそれが正しかったのかは分かりません。自分でもなぜかわからないのですが、私はこう言っていました。
『よろしい。君に大人になる時が来た。大人というのは、どんなに辛いことがあっても、生きて戦う方を選ぶものだ』とね。どうしてこんなに早く大人にならなきゃいけないんだと聞き返されて、私は言いくるめましたよ。
『人にはそれぞれ大人になるための試練があって、君にはたまたまそれが早く来ただけだ』とね。もちろんその後も、ものすごい勢いで文句を言われ続けましたが。
そりゃそうですよ。病気の子供に向かってなんて残酷なことを言うんですか。
でも修平君は大人になりました。言っている意味はわかりますよね?今生き延びているでしょう。
久方さん、あなたはどうですか?
もう修平君よりははるかに大人のはずでしょう。今いくつです?25?28?まあどうでもいい。とにかくいい歳の大人です。健康じゃないですか。自由に動き回れるほどに。何を泣き言を言っているんだと私は言いたいですね。
久方は黙った。『それとは話が違う!』と言いたかったのだが、なぜか言葉が出てこなかった。相手の方が正しいことを言っている、それは理解できた。しかし、まだ何かが引っかかっていた。
今日はとりあえず大人になって戻ってください。与儀さん達があなたを訪ねて来ています。なのにいたのは橋本だった。みんな戸惑っていますよ。橋本も困っていますし。
ヨギナミが会いたいのは橋本だよ。僕じゃない。
まだそんなことを言っているんですか。無駄ですよ。
強制送還します。
そろそろ戻らないと修平君が心配なのでね。
久方が言い返す暇もなく、強風が襲いかかってきて、視界がひっくり返った。
気がつくと、久方は木製の素朴なドアの前に立っていた。そこは、松井カフェのトイレの前だった。店の方から佐加のけたたましい話し声と、ラジオの音が聞こえる。食器ががちゃがちゃ言う音、おじさん客達が持病について話す声なども。
ああ、また戻ってきてしまった!
久方は壁にもたれて顔を伏せた。体が震えた。またこの体に戻ってきてしまった。不本意ながら。
おう、戻ったか、よかったな。
橋本の声がした。
よくないよ。なんでこうなるの。
久方は小声でつぶやいた。
いいから席に戻れよ。ヨギナミが待ってるぞ。お前が戻ってきそうな気配がしたから席を外したんだよ。若い奴らを安心させてやれ。
橋本の声はそこで途絶えた。久方はしばらく動かなかった。人生がまるごと夢だったらいいのにと思いながら、壁にもたれていた。
あの〜。
声がしたので見ると、藤木が立っていた。背が高くがっちりしているので、まるで大きな壁のようだ。ただし、表情は穏やかな壁だ。
大丈夫ですか?
戻ってこないんでみんな心配してますけど。
大丈夫。
久方は言って、無理やり笑おうとした。
所長さんですよね。雰囲気でわかります。
藤木がそう言って笑った。どうやら、この子は味方らしい、と久方は思った。一緒に席に戻ると、
あ〜所長じゃん!久しぶり〜!
佐加のうるさい声に迎えられた。走って逃げたくなった。しかし、隣で笑うヨギナミの顔があさみに似ていたので(ただし、母親よりははるかに優しそうな顔だったが)我慢して席に座った。
おっさんが『体の調子悪い』とか言ってたけど、所長は大丈夫?
ヨギナミが尋ねた。久方は自分の手を見た。小さな手。自分のものではないかもしれない手。
ちょっとこわばってるような気がするけど、大丈夫。
確信が持てないまま久方は答え、足を少し動かした。何かが動いていると思ったら、ねこがテーブルの下に入ってきていた。
さっきまでものすごい剣幕で威嚇してきたのだが、
杉浦がねこを見ながら言った。
幽霊がいなくなったのでやめたようだ。
君達、なんで僕に会いに来たの?
久方はやや不満を表しながら尋ねた。
僕より橋本に会いたかったんじゃないの?
ううん、所長にサキのこと聞きに来ただけ。
佐加があっけらかんと答えた。久方はうんざりしてきた。早紀!忘れてた!店内を見回すと、いつものカウンターに孫の姿はない。
高条なら、第3グループで平岸家に集まってるよ。
ヨギナミが言った。つまり早紀と一緒ということだ。久方はもう帰りたくて仕方がなかった。帰ったらベッドにもぐってそのまま永遠の眠りにつきたい。ああ、でも今日もあのピアノ狂いがバカみたいにラフマニノフを弾いてる。
所長ってさ〜、今までどこにいたの?寝てたの?
おっさんが心配してたよ。
いつもなら近くにいるのに今日はいないって。
別にどこにもいないよ。
久方は言った。夢の中の話はしたくなかった。そうだ、自分はとうとうあの人に会ったのだ。存在を完全に否定してくるあの──
体に震えが走って、動悸がした。
どうしたの?
ヨギナミが異変に気づいて尋ねた。
何でもない。
久方はなんとか落ち着こうとした。
まだ調子がよくないみたいだ。それにこの体は、僕のものじゃないかもしれないし。
久方は言った。
それはないですよ。
杉浦が言った。
でも僕は──
若い人達に言っていいのか、久方は迷った。だが、気づいたらこんな言葉を発していた。
ここにいてはいけないような気がする。昔からいつも、世界に否定されているような感覚が消えない。
すると佐加が、
それ、自分から参加しようとしてないだけじゃね?
ときっぱり言い放った。久方は唖然とした。
祭りとかもそうじゃん。どっかで勝手に誰かが開いてさ、『あっ!楽しそう!うちも参加したい』と思ったらこっちから出かけてって盛り上がるじゃん。Twitterでバズってるのもさ〜、参加したい人が勝手に集まってるだけじゃん。所長が世界に参加しちゃえばいいんだって。勝手に!
なんという自分中心の思考だ。
ついていけない。
久方は曖昧に笑い、頭の中でため息をついた。
それからヨギナミが、
所長さん。サキと高条が付き合ってるのはいいの?放っといて。
と尋ねた。久方は再びうんざりした。
どうしてみんな同じ質問をするの?
あ、やっぱりみんな聞いてくるんですか。
藤木が言った。おい、お前は味方ではなかったのか、でかい壁。
僕とサキ君は気の合う友達だから、いいんだよ。それだけ。もうその話やめてくれない?僕コーヒー頼んでくるよ。
声を聞きつけて松井マスターが近づいてきた。久方はコーヒーを頼み、佐加は『おっさんのリュック』に勝手にクッキーやコーヒーやお茶をつめ始めた。その代金は久方にツケられた。
なんでこうなるんだ。
不本意ながら買ってしまったものを背負って、久方は帰った。若い4人組はこれから平岸家で早紀のグループと合流する。
佐加め、言っていることがめちゃくちゃだ。
勝手に参加すればいいだって?
僕は君達のグループには入れないし、サキ君のような若者の仲間入りもできないじゃないか。
わかっているくせに。
ブツブツ文句を言いながらも、『自分から参加すりゃいいじゃん』という言葉は、久方の頭の隅にずっと引っかかり続けた。
建物に帰って、橋本の棚の上に彼のリュックを置いた。中からはコーヒーとお茶を取り出し、クッキーは残しておいた。これはおそらく橋本に食べてほしくて入れたのだろうと思ったからだ。
この人生だって本当は──
また同じことを考えそうになった時、スマホが鳴った。
先生が怒ってますよ。いい加減にしてください。
俺は今日めまいがしてサキにいじめられました。
高谷修平からだった。そういえば新道先生が言っていた。『私がここに長くいると、修平君が体調を崩す』と。一体あの2人はどうなっているのだろう。
腹減った!あれ?どっか行ってたの?
何も知らない結城が降りてきた。
カフェに行った。
久方は答えた。それ以上話したくなかった。
そうか。かわいい子いた?
病気の話をしているおじいさんしかいなかったよ。
ハハハ!そっか。今度合コンする?
保坂も呼んでさあ。
そういうのやめてよ。
いやでも、お前はもっと大人の女に目を向けた方がいいって。彼氏付きの『サキ君』じゃなくて。
からかうと夕飯作ってやらないぞ。
おっと、それは困る。今日疲れてて外出る気しないし。
なんでそんなにピアノばっか弾くの?
なんでそんなにいつもいじけてんだよ?
結城がニヤリと笑った。『お互い様だろ?』という風に。
久方はピアノ狂いを軽くにらんでから、キッチンに消えた。




