2017.1.29 日曜日 研究所
夜中。結城が部屋で楽譜を読んでいると、廊下から足音がした。この歩き方は久方ではない。これは女の足音だ。
ドアを開けると、やはりそこには早紀がいた。
ただし、それは早紀ではなく、早紀の体を使っている奈々子だったが。
帰れよ。
結城は無表情で言った。
サキが高条くんと付き合ってるの、知ってる?
奈々子は言った。早紀の声で。
知ってるよ。久方が落ち込んでたからな。そんな話はどうでもいいんだよ。新橋の体を使うなって言ってるだろ。
わかってる。私は今までできるだけ出てこないように頑張ってた。でも最近、サキは、私が死んだころと同じ年代になった。
考えてしまうの。
あのまま生きてたらどうなっていただろうって。
そんなことは考えてもなんにもならないって。
結城は部屋の中に戻ってまた楽譜を眺め始めた。奈々子はそっと部屋に入り、ぐるっと中を見回した。
ピアノ以外目に入ってない人の部屋だね。
奈々子は言った。結城は反応しなかった。
私、気になることがあるんだけど、
何だよ?
あなたは、こんな生活してていいの?結城さん。
奈々子は結城をじっと見ていたが、結城は楽譜から顔を上げなかった。
本当はもっと大勢の人の前で演奏活動をしてるはずじゃなかったの?なぜこんな所にこもって一人でピアノを弾いてるの?聴いてるのは創くんとたまに来る学生さんくらいでしょ?どうして──
お前がそれ言うか?誰のせいだと思ってるんだ!?
結城は叫びながら楽譜をピアノに叩きつけた。そして、自分が夜中に大声を出しすぎたことに気づき、また平静を装って楽譜を拾い、めくった。
ごめん。余計なこと聞いた。
奈々子が謝った時、廊下から別な足跡が聞こえ、ドアがノックされた。隣の久方が起きてしまったのだ。
奈々子さん。だめですよ。ここに来ちゃ。
ドアが開くなり、久方はそう言った。
結城、平岸家まで送ってあげなよ。こんな夜中に雪道を一人で歩くなんて、危ないよ。奈々子さん。
久方が言った。結城はそれを無視した。
お前が行かないんなら、僕が行く。
久方は奈々子を連れて1階に降り、コートを着て、懐中電灯を持って外に出た。
創くんはいいの?サキを放っといて。
帰り道で奈々子が尋ねた。
何がですか?
サキが高条くんと付き合っていても、平気なの?
平気です。僕らは友達ですから。
久方は強がって嘘をついた。
本当はこの話題が死ぬほど嫌だった。
そうなの?私はてっきり、いつかまたサキかあなたが自分の気持ちに気づいて告白して付き合い始めると思ってた。ていうか、もう付き合っているようなものだと思ってたけど。
違います。そういうんじゃない。
久方は強く言った。足元の雪を踏みしめながら。
そういうんじゃ、ないんです。
そう?でも私は、なんだか──後でどちらも後悔するんじゃないかと思うんだけど。
大丈夫です。後悔なんかしません。
そう?
奈々子が、つまり早紀の体が、きちんと平岸アパートの部屋に入ったのを確認した後、久方は一人で夜道を歩いた。田舎の夜は底抜けに暗い。気を抜くと暗闇に吸い込まれてしまいそうだ。明かりに満ちた街とは何と違うのだろう。ここはもはや人間の領域ではなく──死者の世界のようだ。
いつか行ってしまったモノクロの森と、そこで自分を狙っているあの人のことを思い出し、久方は背中のあたりに恐怖を覚えながら道をたどっていった。玄関に着いた時にはひどく安心してため息が出た。2階に行くと、結城は部屋にいて、楽譜を見ながら、
あいつ説教魔だろ。生きてた頃からそうだった。
と言った。久方は『そうだね』とだけ言って自分の部屋に戻った。それから、自分のせいで起きているこれらのことについて悩んでいると、
お前のせいじゃない。気にしないで早く寝ろよ。
という声がした。
かえって眠れないよ。そんなこと言われたら。
久方は言い返した。それから、
奈々子さんはどうして結城に会いに来るんだろう?
サキ君の体を使っちゃいけないことはわかっているはずなのに。
と声に出して言った。すると、
我慢できないこともあるんだろ。
実は俺もたまにあるんだよ。
と橋本が言った。
あいつはたぶん、
奈々子のことが好きだったんだろうな。
えっと、それは結城のこと?
他に誰がいるんだよ。覚えてないんだな。
昔俺達が奈々子に会うのを邪魔してきただろ、あいつ。あれだって嫉妬心の為せる技だと思うぞ。奈々子が俺達ばかりにかまってあいつのことは嫌ってたから。
そういえばそんな光景を夢で見たような気がする。やっぱり結城はそのことを気に病んで、それで罪滅ぼしに僕の世話をしているのかな?
今更何やったって罪滅ぼしにはなんねえよ。
それよりお前、本当にいいのか?
何が?
新橋だよ。
その話はやめてよ。
わかったよ。もう寝ろ。
声と気配が消えた。
橋本も説教くさいな。
久方はつぶやいてから電気を消し、ベッドにもぐった。しかしなかなか眠れなかった。
創くんはいいの?
早紀が高条くんと付き合っていても、平気なの?
奈々子の言葉を頭の中で反芻していた。それが早紀の顔と声で発せられたために、余計に印象に残ってなかなか消えなかった。
平気じゃないよ。
辛いよ。
早紀に向かってそう言ってしまいそうになった。そう、しゃべっているのが奈々子でも、もしかしたら早紀もここにいて、この会話を聞いているかもしれない。そう思ったら本当のことは言えなかった。
もしここに早紀の体がなくて、奈々子だけがいたら、自分は間違いなくこう言っただろう、と久方は考え、自分の気持ちを再確認してさらに胸が傷んだ。
辛いんです。
自分の一部を取られてしまったみたいで、
身悶えするほど苦しいんです──。




