2017.1.20 金曜日 ヨギナミ 松井カフェ
松井カフェに、ヨギナミとおっさんがいた。午後3時頃のことだ。バイトが急に休みになったので、ヨギナミは思いつきで『おっさん、カフェに来ない?学校終わってから』とメールしてみた。返事はなかったが、学校帰りに高条に『幽霊がカフェに来てヨギナミを待ってるってばあちゃんが言ってる』と言われ、一緒にカフェに向かった。早紀はついてこなかった。やはりおっさんを嫌っているのだろうか。
おっさんはカウンターに座り、松井マスターと話をしていた。ヨギナミに気づくと笑って『おう』と言った。ヨギナミは隣の席に座った。高条はカウンターの奥へ行った。
どうした?何かあったのか?
おっさん、お母さんがああいうふうになって、悲しい?
ヨギナミはいきなり尋ねた。おっさんは数秒止まってから、
悲しいよ。
と答えた。
でも、まだ死んだわけじゃない。
そうだね。
ヨギナミは、おっさんと店の様子をぐるっと見てから、
私、何とも思ってないの。
と言った。おっさんがヨギナミを見た。言葉の意味をはかりかねているようだった。
お母さんがあんな状態なのに、私、心が動かないの。
それっておかしいことだと思う?
まだ実感がわかないだけだと思うの。
松井マスターが横から口を挟んだ。
いや──
おっさんは少し迷ってから、
おかしくはねえよ。
とだけ答え、少し黙ってから、
でもな、あさみはお前のことを心配してると思うぞ。
と言った。今度はヨギナミがおっさんを見て、
どこが?
と真顔で聞いた。
どこがって、どこもかしこもだよ。
あのな、あさみがひねくれてるのはお前も知ってるだろ?特にお前の前では絶対に弱みを見せたがらない。
でもな、
俺と話してるときは、いつも心配してるんだよ。
お前が自分みたいになったら困るってよ。
私はお母さんとは違うもん。
そうか?そういえば杉浦はどうした?
なんでそこに杉浦が出てくんの?
あさみが怖がってるのがまさにそこだからだよ。
娘が自分みたいに変な男に捕まったらどうしようかって、それだけが心配でたまらないんだよ。お前は優しいから相手に流されてしまうんじゃないかってな。
そんなことないって。
別に私優しくないし。
杉浦はやめとけよ。
そう言うおっさんの目つきは少し怖かった。
あれは駄目だ。女を不幸にする男だ。俺にはわかる。
なんでおっさんにわかるのそんなこと。
男にはわかるんだよ見ただけでよ。
おっさん、
杉浦が本好きなのが気にいらないだけだよね?
そうじゃねえよ。
あの批評家気取りが気に入らねえんだって。
夢中で言い合っている2人は、自分たちに高条がスマホのカメラを向けていることも、カフェのドアに危険人物が近づいていることにも気づいていなかった。
おやおや、僕が話題になっているようだね。
光栄なことだ。
なんと、杉浦がカフェに来てしまった。ヨギナミは驚いて振り返り、おっさんは血走った目で天敵をにらみ、高条はスマホを構えたまま『うわやばいこれ!ヒヒッ』と笑い声をあげた。
どうしてここに。
ヨギナミが真っ赤な顔をして尋ねた。
いや、帰りに君と高条がここに幽霊がいると言っていただろう?一度会って話してみたいと思っていたのだよ。それで少々準備をしてきたわけだ。
杉浦は迷わずヨギナミの隣に座り、革のカバンからファイルを取り出した。『札幌の歴史 1970〜80年』というテプラが表紙に貼ってあった。
当時の札幌について話を聞くいい機会だと思ってね。
お前に話すことなんか何もねえよ。
おっさんは遠慮なく敵意をむき出しにしていた。
俺は帰るぞ。
いやいや、お待ちください。話を聞いてからでも遅くはないですよ。新橋さんや高谷からだいたいの話は聞いています。当時は受験戦争が最も激しかった時代で、いわば詰め込み教育の弊害が──
俺に関係ねえよそんな話はよ。そんなつまんない話を女の前でするんじゃねえって。お前ヨギナミの話を少しは聞いたことがあんのか?あぁ?
なるほど、僕は少々自分の趣味に走りすぎたようだ。
杉浦は余裕の表情をしながら、
ところてヨギナミ、お母さんの様子はどうだい?
あっさり地雷を踏んだ。
ヨギナミは、
意識がないの。
と言ったきり下を向いて黙ってしまった。どうしよう。母親の病気にも何も感じない冷たい人だと思われたかも。
そうか、それはつらいな。
しかし希望を持ちたまえ。
昏睡状態から目覚めた例は世界中にあるからね。
杉浦は明るく言った。それから、本州の文化と北海道の文化の違いについて持論を語り始めた。伝統のある本州に比べると、新たに開拓された北海道の文化は合理的であり、冠婚葬祭も簡素なものになりがちで云々。
おい、あさみはまだ死んでねえんだぞ。
何が冠婚葬祭だ?
おっさんが怒り出した。松井マスターがまあまあと割って入ろうとしたが、
いえ、こういうことを事前に準備しておくのは大切なことだと思いますよ。
杉浦は平然と言ってのけた。
そういえばヨギナミ、
君んとこの宗教はどうなっているのかね。
ヨギナミは答えられなかった。『宗教』がそもそも何なのかもよくわかっていなかった。伊藤ちゃんがたまに祈っているあれか、それともスマコンが『ハイヤーセルフが私に教えた』とか言ってる予言みたいなやつ?母が神を信じているとは思えない。そもそもなぜここで宗教の話が出てくるのか、ヨギナミには全くわからなかった。つまり、日本の、宗教によって変わる葬式について、何も知らなかったのだ。
てめえいいかげんにしろよこの野郎!
とうとうおっさんがブチ切れ、ヨギナミをよけて杉浦につかみかかった。松井マスターと、近くの席にいた住民のおじさんが止めに入り、2人を引き離した。おっさんはしばらく杉浦を罵り続けていたが、急に静かになったかと思うと、
もう!やめてよ!2人とも!
さっきまでとは全く違う声で叫び、床にすわりこんでしまった。
高条が驚いて近づいてきた。スマホを持ったまま。
あ、所長に戻ったんだ。
しゃがんでいる人の手が震えているのを見て、ヨギナミは気づいた。なので杉浦にもそう言った。杉浦は所長の近くに自分もしゃがみ、
大丈夫ですか?
と尋ねた。
ごめん、僕今──
わかっていますよ。僕を罵ってつかみかかったのは幽霊であって、久方さんではない。
しかし彼のキレやすさには困ったものだ。僕がせっかく資料を持ってきて、懐かしい時代の話を聞いてやろうとしていたというのに。
お前のズレ具合、かなりヤバいと思うよ。
高条が言った。まだスマホを構えていた。
勇気、撮るのはやめなさい。
松井マスターが注意したが、
いや、新橋に見せないと。
と言って、高条は撮影をやめなかった。
『所長』はよろけながら立ち上がり、元の席に座った。松井マスターがコーヒーを出した。所長は『すみません』と、隣の席の人にしか聞こえない小声で言った。顔が青白く、怯えているように見えた。震える手でコーヒーを一口飲んで、店内を不安げに見回してから、カウンターの上のファイルを見て、
これ、見てもいい?
と杉浦に尋ねた。
どうぞどうぞ。そのために持ってきたんですから。
杉浦はファイルを開き、当時の札幌の状況を説明し始めた。所長は時々質問したり、『これ、懐かしい感じがするね』と言いながら、熱心に聞いていた。おっさんより所長の方が、杉浦とは相性がいいらしい。
ポテトチップが当時もあったとか、地下鉄がまだ2種類しかなかったとか、その後にできた東豊線には『ある議員が持っている土地に作られた』という黒い噂があるとか、どうして手稲まで地下鉄を伸ばせないのかとか、ヨギナミにはあまり興味を持てない話ばかりだった。それより、おっさんが学校をサボっていた頃の話をもっと聞きたかったのだが、残念ながら本人はもう引っ込んでしまった。
さっき何が起きたのだろう?
本人が怒鳴っている最中に引っ込むとは思えないから、やはり所長が強制で出てきたのだろうか。ケンカを止めるために。
話の途中で夕食の時間になり、平岸パパが車で迎えに来た。杉浦と所長はまだ話し込んでいた。ヨギナミは帰りたくなかったが、もうおっさんには会ったからいいかと思い、帰ることにした。少なくとも、自分の冷たさについて、おっさんは責めるようなことは言わなかった。
でも、あのお母さんが私を心配している?
それがわからなかった。ヨギナミには、母が自分をよく思っている場面が、どうしても想像できなかった。
さっき杉浦に母の宗教を聞かれたんですけど、
わからないんです。
ヨギナミは平岸パパに聞いてみた。
仏教でいいんじゃない?
日本じゃ、宗教がわからない人もみんな仏教的な世界観で生きてるもんだから。
と言われた。たから杉浦は私に仏教の本を勧めたのかなと、ヨギナミは帰りの車内でぼんやりと思った。




