2017.1.17 火曜日 研究所
午前9時。奈良のとっつぁんは時間どおりにやってきて、玄関の鍵を手際よく交換して『合鍵、とりあえず4本ね。これ作るの大変だからなくさないようにね』と言ったあと、
最近マンボーに来ねえけどどうした?
今週末はイベントで玉出やすくなるぞ。
久しぶりにやろうや。
と言った。やはり橋本と勘違いされている。
久方はぎこちなく笑いながら、『時間があったら』と答えるのが精一杯だった。
早紀に合鍵を渡したかったが、今日、平岸家の人々はどこかの温泉へ日帰り旅行に行っていて、一日中いない。今日は火曜日だ。ヨギナミの休みに合わせたのだろう。
ヨギナミにも鍵渡すの?
いいねえ、女子高生2人もキープか。
結城が嫌味を言ってきたが無視し、パソコンでの作業を終えた後、散歩に出かけた。ここ数日、雪雲が空に居座っていてなかなか去らず、時々雪が落ちてくる。雪に閉ざされたという表現がふさわしいのはこんな日だ。何もかもが止まって見える。でも、生きるのをやめているわけではない。あと3、4ヶ月すれば、この辺りにも新しい芽が出てくる。
久方はしばらく、雪に半分埋もれた小さな木の近くに立っていた。自分もこの木と同じで、今は眠っていて、来るべき時が来たら元気になる──と思いたかった。でも、自分の半分は、今のこれが本当の自分だとわかっていた。
人生を変えたい。
久方はそう思うようになっていた。実際、この一年で久方は大きく変わった。レティシアの結婚のショックもあるかもしれないし、長年自分を悩ませてきた幽霊と過去のことがわかりかけてきたこともある。駒も言っていたではないか。『お前も変われるってことや』と。
でも、具体的に何をすればいいかわからない。
ピアノ狂いは『神戸に帰れ』と何度も言ってくるし、神戸の両親も帰ってこいと言ってくれている。
あの2人が本当の親なら良かったのに。
久方はいつも思っていた。陽気で冗談が好きで商売が上手い父と、こんな自分を受け入れてくれた優しい母。それに比べて、本当の親だとわかった人の行いときたら。
嘘つきで、
人に執着して、
人に迷惑をかける。
人を殺している。
自分にはそんな人の血が流れている。それが、久方にとっては恐ろしいことだった。昨日早紀に言われたことも気になっていた。
他人の身になりすぎです。自分のことでもないのに。
人の代わりに傷つくのはやめてください。
もっと自分のことを考えましょうよ。
自分が早紀に抱いている想いは執着だろうか?あの人が橋本にこだわっていたみたいに?そう考えると恐ろしくなった。だからといって、早紀から離れることも考えられない。早紀は自分だからだ。これは単なる考えじゃないし、執着じゃない。ただの事実だ。
そう思いたい。
気温は低い。体が冷えてきた。久方は今日の天気のように晴れない気持ちを抱えたまま研究所に戻った。使い慣れない鍵と格闘してから中に入ると、ピアノの音がしない。スマホを見ると『保坂と出かける』と連絡が来ていた。久しぶりに自分の部屋でゆっくりできそうだ。久方は2階に上がり、自分の部屋の机に向かった。紙を一枚取って何か書こうとしたが、何を書こうとしたか思い出せなかった。これからのことだったか、それとも今のことだったか。
考えていると、後ろに人の気配を感じた。
橋本が、壁にもたれて床に座り、うつむいていた。昔、廃ビルでそうしていたのと同じように。
どうしたの?
久方は椅子から降りて、橋本の前に座った。
何か話したいことがあるの?
俺は、
橋本がぼんやりと言った。
新道がうらやましかったんだ。
新道先生?
純粋で真っ直ぐで、誰にでも信用されて、
最後には何でも手に入れる。
そうなの?
俺とは真逆だ。
あのさあ。
久方は心配になってきた。
僕の言ってること、聞こえてる?
橋本は少しだけ顔を上げたが、また下を向いてしまった。
俺はお前がうらやましいよ。
前も言ってたね、それ。
今から何でもやり直せるもんな。
俺たちはもう、何もかも取り返しがつかないんだ。
後悔しかないんだ。
何があったの?
久方は尋ねた。
あの人とお前と、新道先生に、何か起きたんだな?
何も起きてねえよ。
そこなんだよ、まずいのは。
何が?
『何も起きてない』んだ。
は?
何も起きてないのに、俺や初島だと、
あいつらは勝手にいろいろと想像して悪く言うんだよ。
新道や菅谷には絶対に言わないようなことをな。
いや、それはいいんだ。もう遠い昔のことだ。
いいんなら何で今頃蒸し返してしゃべってるのさ。
ずっと気になってたんだろ?
自分にだけ悪いことが起きて、
まわりの人には起きないのはなぜかって。
そんなの僕が知りたいよ。
僕だって同じようなもんでしょ?
久方が言うと、橋本は、
お前は違うよ。
口元だけに笑みを浮かべて言った。
少なくとも、お前は真面目で、信用されてるからな。
そうかな。
気づいてねえのか、大人のくせによ。
橋本は笑いながら姿を消した。
自分の言いたいことだけ言って消える。何なんだよ。
久方は立ち上がって少し悩んだ後、1階に戻って、スティーブン・スティルスのCDを低めにかけた。橋本は生きていた頃ほとんど音楽を聴いていなかったらしいと気づいて、昔の音楽に興味を持つようになった。60年代や70年代は、今のミュージックシーンが出来上がった頃だ。少し掘っただけで、遺跡のようにすごいものがたくさん出てくる。
もったいないよな。
でも、もしかしたら僕も、自分が生きている時代のことはわかっていないのかもしれない。
久方はそう思い、スマホで今のヒット曲を調べてみた。ほとんど理解不能だった。自分が歳を取っていることを感じながら、早紀に、『今度、米津玄師のCD貸して』と打ってみたら、
ほとんどダウンロードしてるんですけど、
『ホープランド』だけCD持ってますから、
明日貸しますね。
と返事が来た。そうだった。今の若者は何でもスマホでやるんだった。
若いんだなあ。
久方はつぶやきながら、今度は高谷修平に、新道先生と橋本とあの人の間に何が起きたか、知ってたら教えてくれと頼んでみた。
橋本が言ってるとおりですよ。
『何も起きていない』んです。初島に乗せられてまわりが無駄に騒いで、先生と橋本を追い詰めただけです。
とすぐに返事が来た。
そんなとんでもない女が自分の母親なのだ。
久方はまたそのことを思い出して暗い気持ちになったが、音楽の力を借りて忘れることにした。
人生を変えなくては。
自分が化石になって、何もかも手遅れになる前に。




