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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年1月

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2017.1.15 日曜日 ヨギナミ

 おっさんが『家の雪かきするぞ』と強く言い張ったため、ヨギナミは結城の車に乗って、しばらくぶりに自宅に戻った。屋根の雪は平岸パパが幸福商会に頼んでおろしてもらっていたのだが、家のまわりはすっかり雪に埋もれてしまっていた。


 もう誰も住んでないんだからいいじゃん。

 やらなくても。


 と言って手伝おうともしない結城。ひたすら雪と戦うおっさん。少々やけになっているようにも見える。なぜかヨギナミと目を合わそうとしない。

 お母さんと話せなかったからだろうな。

 とヨギナミは思った。母は昨日から意識がなく、容態も悪かった。あと半年もつかどうかだと医者が言った。ヨギナミに休むように言った。スギママが病院に残っていた。意識がないんだから付き添いは必要ないんじゃないかと思ってしまう自分は、やはり冷たいのだろうか。


 あと半年で、母が死ぬかもしれない。


 と聞いても、何も感じない自分は何なのだろう?


 おっさんの雪のどけ方が大ざっぱなので、ヨギナミはその後について細かい窓などの雪を払った。こんなことをしてもどうせまたすぐ降ってくるのだが。何かしていた方が落ち着く。


 そろそろやめとかな〜い?

 久方が疲れるんだって!


 結城が叫んだ。おっさんは暗い顔で車に戻っていった。車内でもうつむいて無言だった。かなり落ち込んでいるのが見ていてわかった。



 夕食のとき、


 所長が寝込んでた。橋本のせいで疲れちゃってて。


 と早紀に言われた。ヨギナミが母の意識がないことを話すと、早紀はそれ以上文句を言ってこなかった。第3グループは今、札幌に遊びに行く計画を立てているらしい。ステラプレイスで買い物するとか、アニメイトは要チェックだとか、本屋に行くとか、伊藤も連れていきたいとか好き勝手に話していた。話題は楽しいことばかりだ。この人達は、家の問題がどうとか生活をどうしようとか、そういうことでは悩まないのだろう。

 ヨギナミは早めに食事を終えて平岸家を抜け出した。今一人で部屋にいたくないが、かといって平岸家にもいたくない。平岸ママに母の話をされそうだからだ。みんな自分がショックを受けていると思っている。母が死にかけているからだ。でも自分は──何とも思えない。

 雪がうず高く積もっている道を、ヨギナミは歩いた。暗い。道にポツポツと明かりがある以外、真っ暗だ。この町でこんな時間に外を歩く人間はいない。飲みに行くおじさん達は車で移動している。そうだ、車の免許を取ろう。そしたら一人でどこにでも行けるし、いざとなったら車に寝泊まりできる。

 これからの生活が、ヨギナミは不安だった。なぜみんなはそのことで悩まないのだろう?いざとなればずっと実家にいられると思っているからか。みんな家が豊かなのだ。

 家。

 それは平岸家のような場所のことを言うのだろう。ヨギナミの家は家ではなかった。それは母の持ち物、母の縄張りであり、自分のものであったことは一度もなかった。自分には家がないのだ。冷え切った道を歩きながら思った。

 いつの間にか駅前の明かりが見えていた。もうカフェも閉まる時間のはずだが、店には明かりがついていた。ヨギナミが窓からそっと中をのぞくと、ねこがシャーと言ったので驚いた。その声でカウンターにいた高条がこちらに気づいてしまった。


 あらナミちゃん。どうしたの?

 中に入んなさい。


 松井マスターがドアを開けた。ヨギナミは、高条とねこの視線を気にしながら中に入った。暖かい空気に全身が包まれ、少しだけ安心した。


 どう?最近。お母さんは元気?


 松井マスターがいつもの調子で訪ねた。


 意識がないんです。


 ヨギナミは本当のことをそのままつぶやいた。


 もう、あんまり長くないかもって、

 お医者さんが言ってました。


 言いながら、やはり何も感じない自分を思った。不思議なような気もするし、そうでもないような気もした。


 あら、そうなの?それは辛いわね。


 辛いのだろうか?

 普通は辛いのだろう。

 ()()()()()()()が入院してたら。

 でもうちは違う。

 ヨギナミは500円玉を取り出して、コーヒーを頼んだ。高条が立ち上がって店の奥に行き、コーヒーメーカーをがちゃがちゃいじりだした。もう営業を終えて片付けていたのかもしれない。ヨギナミは申し訳ないと思った。自分はなんでこんな時間にここに来てしまったのだろう。今は平岸家に守られているはずなのに。


 これ、新しいブレンドだから、試しに飲んでみて。


 高条がコーヒーカップを置き、500円玉をヨギナミに押し戻した。


 試作品だから金いらない。率直な感想が欲しい。


 相手の目が真剣だった。イケメンが真剣だと凄みがある。ヨギナミはドキドキしながらコーヒーを一口飲んだ。


 苦い。


 思わず口から出た。


 そうでしょう?

 この子苦いのが好きだから、何でも苦くしちゃうの。


 松井マスターが困った顔をした。


 何言ってんの、コーヒーのうまさはこの苦みでしょ。

 女子は甘いもんに慣れすぎ。


 ヨギナミは甘いものなど(少なくとも平岸家に来るまでは)あまり食べていなかったのだが、それでもこのコーヒーは苦すぎると思った。高条はまたコーヒーメーカーに向かって何かがちゃがちゃやりはじめた。


 どうしても自分だけのブレンドが作りたいみたい。


 松井マスターが小声で言った。それから、


 何かできることがあったら何でも言ってちょうだい。与儀さんとは長い付き合いなんだから。ほんとは私ももっとお見舞いに行きたいんだけど、店を空けられなくてね。


 いいんですよ、別に。


 ほんとに、困ったことがあったらいつでも言ってね。


 松井マスターがそう言ってくれるのはありがたいが、ヨギナミは別に困っていなかった。何も()()()()()()()()にとまどっているのだ。でもそれを口に出してよいのかがわからなかった。


 お医者さんの話を聞いたとき、ショックじゃなかった?


 いいえ、実は──何も感じなかったと言ってもいいくらいで。


 実感がまだ湧いてないのよ。夫の時もそうだったわ。人って、急に悲しいことが起きたり、親しい人が亡くなったりすると、急に受け止めきれないのよ。後でじわじわと来るものなのよ。悲しみとか、怒りとか、色々とね。


 そうなんですか。


 自分も後で悲しくなったりするのだろうか。今の所、そんな日が来るとは思えないが。このまま母が死んでも自分は何とも思わないのではないかとヨギナミは思った。怖いのでコーヒーを飲もうとしたら、高条がカップを引っ込めて別なものを出してきた。


 こっち試してみて。


 高条の目はやや血走っていた。ヨギナミは不安を感じながらコーヒーを飲んだ。


 あ、おいしい。


 新しい方は苦味が減り、香りが足されていた。


 でしょ?


 高条は満足げに微笑んだ。うわ、かっこいい。ヨギナミは思った。クラスの女子全員にイケメン認定されてる理由が今日わかった。これまでは、なんとなく近づきにくい雰囲気の人だと思っていたのだが。


 ヨギナミ、平岸家にいるんだよね。

 新橋が今日何してたか知ってる?


 と聞かれたので、ヨギナミは今日起きたことを説明した。


 久方さんお気の毒ね。

 おっさんの方もきっと動揺しているのね。


 松井マスターが言った。


 今度うちにいらっしゃいって伝えておいてね。

 私も話したいから。


 新橋、やっぱり久方さんのとこ行ってるのか。


 高条が目元を歪ませた。嫉妬しているのかもしれない。ヨギナミはドキドキしてきた。これから何か起こりそうだと思ったからだ。

 それからしばらく平岸家の噂話をし、ヨギナミは8時頃にアパートに戻った。入り口に早紀が立っていて『どこ行ってたの?』と聞かれた。カフェで高条に会ってたと言ったら『あ、そう』と言って引っ込んでしまった。なぜ早紀は外にいたのだろう?話したいことでもあったのだろうか。

 ヨギナミは部屋に戻ってから数学の勉強をした。そして、12時頃にベッドに入った。今日起きたことを思い出していたら、松井マスターに言われたことが頭をよぎった。


 まだ実感が湧いてないのよ。

 悲しみは後でじわじわと来るのよ。


 実感って、何?


 ヨギナミは本当にわかっていなかった。泣く気も起きない。本当に何も感じていない。でも、何も問題がないわけではない。

 現に今、眠れない。

 隣の高谷の部屋から話し声が聞こえる。高谷でも眠れないことがあるのだろうか。ヨギナミは何度も寝返りを打った。イケメンすぎる高条を思い出してちょっと笑い、すぐ杉浦のことを思い出して悲しくなった。母のことを考えても何も感じないのに、杉浦のことを考えると心が動く。やはり私は母に似て男性に興味が──

 いや、それは嫌だ。考えたくない。

 眠れそうにないので、杉浦に借りたジェーン・オースティンの『エマ』を読み始めた。ものすごく分厚い本だ。杉浦は、昔は本の他に娯楽がなかったし、人の暮らしもゆっくりしていたから、厚い本が好まれたのだとか言っていた。単にこの人の作風が長ったらしいだけじゃんと佐加は言う(驚いたことに、佐加はこの『厚い作家』の作品をほとんど読み終えていた)。

 中身は『高慢と偏見』よりずっと読みやすくて楽しそうだ。父親と一緒に暮らす苦労は、ヨギナミにもわかる。父ではなく母だけど。エマは友達をある男性にくっつけようとするが、その男性はエマに求婚し、怒ったエマは断って──という所まで読んで、ふとヨギナミは高条のことをまた思い出した。高条は早紀を気にしている。たぶん好きだと思う。何とかできないだろうか。でもそうなると久方さんが悲しんで、おっさんが文句を言うだろうか。

 おっさん。

 たぶん自分よりおっさんの方が、

 母のことでは悲しんでいる。

 ヨギナミは今日のおっさんの様子を思い出し、やはりお父さんっぽいなと思った。少なくとも、本物の()()よりははるかにまともな父親らしい。

 今度おっさんとカフェに行こう。

 ヨギナミは本を閉じてベットに戻り、今度はすぐにぐっすりと眠った。






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