2017.1.12 木曜日 病院→カフェ→研究所
今日、創がデートするんだ、受付の女と。
病院で、橋本がニヤニヤしながら言うと、あさみが厳しい顔をした。
うまくいくといいんだけどな。
あいつもう長いことそういう付き合いしてねえから。
久方さんがその人と付き合い始めたら、
あなた、どうするの?
あさみがゆっくりとした声で尋ねた。
別にどうもしねえよ。
橋本は穏やかに答えた。後ろで見ていた平岸ママは心配していた。そんなことになったら、また早紀ちゃんが荒れるんじゃないかしら、と。
昼。
松井カフェのカウンターよりの席に、久方と、和久井さんが座っていた。松井マスターと数人の客、そして高条が、それぞれ自分のことをするふりをしながら、2人の様子を興味深くうかがっていた。
和久井さんは、久方の様子を眺めてニコニコし、久方は緊張して下を向きがちだった。まず自己紹介して、なんとなく天気の話をした。今日は今季初のマイナス10度、とにかく空気が冷え込んでいて、本当なら外に出ない方がいい日だ。こんな日に来ていただいてすみませんと久方は言った。しかも和久井さんは仕事中で、昼休みに来てくれているのだ。
いいんですよ。天気がどうなろうと役所の仕事はなくならないんですから。
そういえば、久方さん。昔病院だった所にお住まいですよね。あのへんは本当に何もないですが、不便ではないですか?
生活相談のような会話になってきた。久方は、住んでいる場所には全く不満はないが、一緒に住んでいる助手がうるさいと文句を言った。それをそばで聞いていた高条は、『助手じゃなくて介護の人じゃないですか?』と口をはさみたいのを抑えていた。
結城さんってかっこいいですよね。
和久井さんが言った。久方は心が冷たくなってきた。
見た目があんなに派手な男の人、この町にいないじゃないですか。歩いてるだけで目立ってますよね。
結城さんって、彼女とかいるんですか?
久方はため息をついてから、
いないけど、しょっちゅう女の子を追い回したりしてるから、あいつはやめといた方がいいと思います。
と、思ったことをそのまま言った。
たぶん、彼女ができれば追い回さなくなるんじゃない?
和久井さんはそう言ってからコーヒーを飲んだ。それはどういうことだろうと久方が考えていると、
そういえば、保坂さんの息子さんが、お宅でピアノを習ってるって本当?
と聞かれた。うわさになっているのか。久方はため息をついた。今日、あと何回ため息をつくことになるのだろう。帰りたくなってきたがそうもいかない。
ええ、来てます。真面目にガーシュインを弾いてて、すごく上手くなりましたよ。
そうなの。あの家は本当にかわいそうなの。旦那さんが悪い女に騙されてね、子供を作って町に居座って金を取ろうとしたんですって。
それで奥さんが病気になってしまって──
和久井さんが気さくな口調になり、一気に噂話を発した。久方は衝撃のあまり目を見開いた。
それでしょっちゅう夫婦ゲンカして、息子さん居場所がなかったんじゃない?町を徘徊してるのをよく見かけたってみんな言ってる。役場の職員の間でも、毎日のように話題になってるの。その女、町から追い出した方がいいんじゃないのって。でも、法的に難しいじゃない? 向こうも子供を盾に──
何言ってんの!?悪いのは保坂の旦那の方でしょ?
話の途中で、久方が甲高い声で叫んだ。
あの男があさ──女の人の方につきまとってるんだよ!
その人は悪い女なんかじゃない。一人で子供を抱えてがんばって生きてるんだよ?なぜみんなでそんな悪口言ってんの?信じられない!
久方が大げさに頭を振った。それで和久井さんは引いてしまったらしい。ランチを半分残したまま、『仕事がありますので』と言って出て行ってしまった。
久方は興奮していて、なんとか落ち着こうと深呼吸していたが、なかなか手の震えはおさまらなかった。松井マスターが水を持ってきてくれた。それから、高条が和久井さんの席の皿を片付けてからまた戻ってきて、
久方さん。
言ってることは正しいけど、さっきの女、絶対今日のことも役場で言いふらしますよ。
気をつけた方がいいですよ。
と言った。久方は小声で『わかってる』と言った。
ごめん、悪かった。
そんなまずい女だとは思ってなかった。
研究所に戻ってから、話を聞いた結城はめずらしく素直に謝ってきた。しかし、そんなことでは久方の気は晴れなかった。落ち着きなく部屋をうろうろ歩き、どうしたらいいかずっと考えていたのだが、いいことなど思いつくはずもない。
デート、どうでした?
早紀から質問が来た。あれ?と久方は思った。今日はここには来ないのだろうか。やはりマイナス10度だと外に出る気がしないのか。
久方は聞いた噂話を送った。すると、
それ、所長の問題じゃないですよね?
と早紀は言ってきた。
橋本の問題ですらないですよね。
町の人が勝手に言ってるだけですよね?
所長、他の人の意見に飲まれちゃダメですよ。
他人との境界線がなくなってるんじゃないですか?
前自分で言ってたじゃないですか。
『僕は橋本じゃないし、橋本は僕じゃない』って。
ましてや他の人でもないんですから。
久方はカウンターのいつもの席に座り、その文面を何度も読んだ。
そうだね。少し落ち着いたよ。
と、本当は落ち着いてなどいないのだが、そう送った。
早紀は『受験勉強してますが、あかねがインスピレーションでやばすぎです』と言っていた。何のインスピレーションかは聞きたくないのでそこでやりとりを終えた。
2階からは『愛の夢』が響いてきた。よりによってなぜ今日この曲なんだと文句を言う気力すらわかない。一つだけ確かなのは、この町でここのことやあさみのことが悪い形で噂にされているということだ。それはよくない。よくないが、久方にできる対策など『常識的に暮らす』以外にほとんどない。
散歩してこよう。
マイナス10度の中を歩く機会なんてそんなにない。
久方は厳重にカーディガンやコートを着込み、毛糸の帽子を深くかぶって外に出た。雪がちらついている。空気はもちろん冷たいが、清く澄んでいる。この空気感はここの冬でしか味わえないものだ。雪は気まぐれに小さく降って、かすかに雲間から射す光にきらめいている。雪山が高くなっていて、小柄な久方はところどころで視界を遮られるのだが、それでも空は高い。
誰もいない道をまっすぐ歩いていく。自分が雪かきをした道と、町の業者(おそらく幸福商会)が除雪した道が交差する所で立ち止まる。あたりは静まり返っている。
自分以外、ここには誰もいない。
何も存在していない。なのに全てが存在している。
これが自然だ。
いや、そんな言葉でひとくくりにしてはいけない。
足元の雪は固く凍って、ところどころ氷の塊になっていた。踏むと割れてつぶれる感触がする。自分の歩く音だけが響く中、光は雪に合わせて言葉を変えていく。心が静まっている者にだけ、それは聞こえる。
帰る頃には、久方の気持ちはだいぶ静まっていた。
町の人には言わせておけばいい。橋本はこのまま病院に行かせる。自分はここで静かに過ごす。それだけだ。せっかくすばらしい場所に住んでいるのだから。
本当に、それでいいのか?
誰かの声が聞こえたが、答えるまでもなかった。




