2017.1.7 土曜日 サキの日記
結城さんはずっと、狂ったようにあのトッカータを弾き続けている。所長がそう言った。アパートに来て。
いろんなことが起きすぎて何から書けばいいかわからない。目覚めたらもう昼で、机の上に紙が置いてあって、下手な字で起きたことが書いてあった。ムカついたので奈々子を呼びまくったけど出てこない。誰かがドアをノックしたので、カッパかあかねが文句言いに来たと思ってドアを開けたら、所長が立っていた。平岸ママに押しつけられた昼食のお盆を持って。
食べながら聞いた話によると、結城さんは奈々子に演奏をダメ出しされたのがよほど気に入らなかったらしく、所長とは一言も口をきかずにずーっとピアノを弾き続けているらしい。
奈々子、なんでそんなこと言ったんですかね?
それは僕が聞きたいんだけど。
よほどこだわりがあるんだろうね。
昔聴いたトッカータに。
それから所長は優しく笑って、
でも、サキ君が戻ってきてよかったよ。
と言った。なんだか泣きたくなってきて、ごはんのどにつまらせてむせて、鼻からなんか出た。何やってるんだろう。
研究所はうるさいので、一緒にカフェに行くことになった。奈々子のせいで冬休みが半日つぶれた──と言いたい所だけど、実は、自分が意識を失った理由はわかっていた。
畠山とノノバンにされたことを思い出してしまったからだ。
何のきっかけもない。スマホで古本あさってたら突然、あの光景がよみがえってきた。ずっと忘れてたのに。
天気はよかった。所長は今日は温かい日だ、予想最高気温がプラスだからと言っていた。0度を超えれば暖かいことになる、北国の温度感覚。
カフェにはもう客がいた。肉体労働系のおじさん2人と、本を読んでいるおばあさんが1人。それで、前結城さんが言っていたという、洋書を読んでいるきれいな受付の人を思い出した。
僕は興味ないよ。
と所長は言ったが、松井マスターが近づいてきて、
それは和久井さんじゃないかしら。
と言った。よく来る客で、いつも外国の小説を読んでいて、ブックカバーは使わないからタイトルがいつも丸見えだと言ってから、新しい客の所に行った。
あのマスター、私達のことも他の客にしゃべってるんじゃないだろうかと心配になってきた。今日高条はいなかった。札幌に出かけているらしい。
コーヒーの香り、なんだか久しぶりのように感じた。今朝奈々子が飲んだはずなんだけど。紙には、食べたものや飲んだものが全部リストになっていて、それぞれに細かい説明がついていた。食事できたのがよほどうれしかったらしい。
生きてるって素晴らしいことね。
という、どっかの自己啓発みないな言葉でその紙は終わっていた。
別に素晴らしくなんかない。
私はいつまであいつらのことを思い出し続けるんだろう?
まだ怒ってる?
所長がこちらをにらむねこを気にしながら尋ねた。
奈々子のことですか?確かに怒ってますけど、でもあまり責める気にもならないですね。
前に橋本が『俺が出てきたんじゃない、創が引っ込んだんだ!』と言い張っていたことを思い出した。あれだ。今日は奈々子が私を乗っ取ろうとしたのではなくて、私が──昔の思い出におびえて──引っ込んでしまったのだ。
あんまりいいアドバイスじゃないけど。
と言って、所長はこう続けた。
強くなるっていうのは、
昔を思い出さなくなることじゃなくて、
思い出しても平気になることだと思うよ。
だって、一度起きたことは変えられないし、
記憶から消すこともできないもの。
おじさん達が出ていき、小さな女の子を抱いたお母さんが入ってきた。松井マスターと『イヤイヤ期なのよ〜』という話をしていた。私みたいだと思った。あれもイヤ、これもイヤ、思い出したくない。あんたたちなんか見たくない。
松井マスターは猫用のクッキーも作るらしい。にぼしやかつおぶしを入れるそうだ。そのお母さんの実家にも猫がいるそうで『うちでも飼いたいんだけど、夫が毛がつくのが嫌だって言うの』と話していた。
そろそろコロコロした方がいいかな。
所長が思い出したようにつぶやいた。なんかおかしかった。
昔を思い出しても平気になること。
どうしたらいいんだろう。
今はまだ──思い出したくない。
研究所に行ってみたらまだ結城さんはトッカータを弾いていて、所長が心配して大丈夫?と聞いてきたけど、奈々子は出てこなかった。あんなに弾いてて指を傷めないんだろうかと心配し、所長は『保坂君に連絡してみよう』と思いついたらしい。そのうち、トッカータはピタッとおさまった。私はそこで帰ったんだけど、後で聞いた話だと、1時間くらいで保坂が来て、またガーシュインの練習をして、夕食まで食べて帰っていったそうだ。




