2017.1.7 土曜日 奈々子
奈々子が目を覚ました。朝の6時頃だった。まずい、と彼女は思った。冬休み中は我慢して出てこないようにしようと思っていたのに。早紀の意識を探してみたが、眠ったままらしい。どこにも見つからなかった。奈々子はしばしどうしようか考えた末、起きることにした。
早紀の体は、重い。
昨日何か疲れるようなことをしただろうかと考えて、思い出した。早紀は昨日の夜、思い出してはいけないことを思い出してしまったのだ。前の学校で起きたことを。とてもつらいことを。
ああ、まずい。
奈々子は思った。たとえだるくても、体が重くても、生きて目を覚まし、起き上がれるというのは、なんて素晴らしいことだろう。こんなふうに普通にベッドから目覚めるなんて、何年ぶりだろう。
いや、だめだ。これはいけないことだ。
奈々子は早紀のスマホを手に取り、隣の高谷修平に連絡した。隣で物音がして、何か話し声がした後、早紀の部屋のドアがノックされた。
「何やってんですか?」
ドアが開くなり、修平が怖い顔で言った。後ろに新道先生がいて、やはり厳しい表情をしていた。
「私もわからないの」
奈々子は早紀の声で言った。
「早紀が起きないの。どこにもいないし、声をかけても反応がない」
『何か心当たりはありますか?』
新道先生が尋ねた。
「たぶん、前の学校の……嫌なことを思い出したんです。昨日の夜」
「いじめ?」
修平が尋ねた。そういうことにしておこうと奈々子は思った。本当に起きたことは、プライベートすぎて話せない。特に男の子には。
「じゃ、そのうち落ち着いたら出てくんのかな」
『だといいのですが』
「私、どうしたらいいと思う?」
「7時になっても早紀が戻って来なかったら、代わりに平岸家に行って朝飯食ってください。早紀の健康のために」
修平はまじめに言った。
「わかった」
「その後のことはその時考えましょう」
修平達はいったん部屋に戻っていき、隣からかすかに話し声がし始めた。たぶん2人でどうするか相談しあっているのだろう。うらやましい。奈々子は思った。私もああいう風に早紀と仲良くするべきだったんだろうか。必死で身を隠したりせずに?でも無理だ。
奈々子は早紀の体で、ふたたびベッドにもぐりこんだ。枕も布団も柔らかくて心地いい。生きてるって素晴らしいことだ。たとえ、寝る以外に出来ることがなくても。
1時間後、奈々子は修平と一緒に研究所へ向かっていた。朝食の時間になっても早紀は戻って来なかった。不幸中の幸いで、あかねは今朝思いついたというBLネタに夢中になっていて、ヨギナミも考え事に沈んでいたので、奈々子は早紀のふりをして食事をした。食べるって、素晴らしいと思いながら。つやつやのオムレツ、色鮮やかなサラダ、トーストとバターの匂い、そしてコーヒーの香り。
「おいしい」
と思わずつぶやいて、平岸ママを笑わせ、修平を慌てさせた。
久方創からは「いつでも来て。今日は出かけない」という連絡が来た。きっと病院行きを取りやめたのだろう。
道の真ん中で、立ち止まった。
「どうしました?」
修平が尋ねた。
「雪、やんだね」
奈々子は微笑んだ。朝方ちらついていた雪はやみ、雲間から青空が顔を出していた。雪が明るく、どこまでも遠く、輝いていた。
「いけないのはわかってるの」
奈々子は景色から目を離さずにつぶやいた。
「だけど、ここで生きて風や空気や光を感じてると、圧倒されてしまうの。なんていうか──生きているってことに」
「別にいけないとは思いませんけど」
「いえ、だめよね。この体はサキのものだし、ああ、もう、どうして帰ってこないんだろう!?」
奈々子は少し乱暴な足取りで歩き始めた。修平はだまってついていった。
久方は建物の前で待っていた。2人を見る目つきはやや悲しげだった。
1階の部屋でコートを脱いでいる間に、ポット君がコーヒーを運んできた。奈々子は席につき、コーヒーの匂いをしきりにかいでから、一口飲んだ。そして、
「おいしい」
とまた言った。
「サキが戻ってこないそうです」
修平はすぐに本題に入った。
「橋本も今日は出てきてない」
久方が言った。
「そういうことはあるんだ。こっちからはコントロールできない。戻ってくるのを待つしかない」
「何があった?」
結城がやってきた。
「たぶん、前の学校のいじめを思い出したから」
奈々子が言った。
「いじめ?」
結城が眉をひそめると、奈々子ははっきりした声でこう言った。
「あのね、あんたや私の世代が『いじめ』って言葉から連想するものと、今のいじめはレベルが全然違うの。あれはほとんど──いや、完全に犯罪」
奈々子は目を伏せた。
「SNSが嫌がらせで炎上した話は聞いたことがあるけど」
久方が言った。
「それもある。今でもサキは、ネット上に自分に関して悪いものが残ってるんじゃないかって怖がってる。だから、若いくせにあまりネットを活用してない」
それからしばらく沈黙があった。かま猫が近づいてきたので、奈々子は抱き上げてなでていた。今しか感じられない猫の重みを心から味わうように。
男性3人はそれぞれ悪い想像をして止まっていた。サキはよほどひどい目にあったらしい。しかしそれは何だ?性犯罪か?
「にしてはあいつ無防備だよな」
結城が声を発した。
「何か痛い目にあったんだったら、少しは人を警戒してもよさそうなもんだろ。なのに人の家には勝手に入ってくるし」
「劇団の人と仲良しだから、大人は警戒しないの。同年代の男の子を怖がるの。いじめた奴らに似てるから。だから修平くんとか高条くんにはよそよそしいし毒舌でしょ?」
「そうだったのか」
修平がつぶやいた。
「それに──あ、だめだ。サキは自分のことを勝手に話されるのが嫌いなの。これ以上しゃべったら後で追い回される」
「こないだ『殺す!』って叫んでドタバタしてましたけど、あれですか?」
修平が尋ねた。
「もう死んでるのにか」
結城が言った。奈々子が変な目(早紀の目!)で結城を見て、
「そうね」
低い声で言った。
「もう死んでる」
奈々子はかま猫を床に降ろすと、『音楽が聴きたい』と言ってCDの棚をあさりはじめた。そして、ラヴェルの『クープランの墓』を取り出すと、ぎょっとしている久方を無視してプレーヤーにかけた。そして、他の曲を飛ばし、トッカータだけを聴いて、
「やっぱり違う」
と言った。それから、結城の方を向いて、
「弾いてみて」
と言った。
「弾くって、その曲か?」
「ダメ?」
「いいけど……」
結城はとまどった顔をしながら部屋を出た。奈々子がその後を追い、久方と修平もついていった。結城はまっすぐにピアノに向かうと、トッカータを弾き始めた。先程のCDとは違う、なめらかな音で。
同じ曲なのに全然違うな。
久方と修平は思っていた。だが、演奏が終わった後、
「近いような気がするけど、やっぱり違う」
奈々子はそう言った。結城は黙ってピアノの蓋を閉め、部屋を出て外まで歩いていってしまった。
「私、帰るね」
奈々子が久方に笑いかけた。
「これ以上サキの体を使ったら怒られるもん。部屋に戻って本でも読みながら、サキが帰ってくるのを待ってる」
奈々子は歩き出し、修平は慌ててついていった。久方は何も言わなかった。
「結城は変わった」
歩きながら奈々子は言った。泣いているような声だった。
「昔はあんな優しい弾き方しなかった」
修平は『そうですか』と言ったきり黙っていた。奈々子が早紀の部屋に入ったのを確認してから、疲れてベッドに倒れ込んだ。




