2017.1.1 1980年1月
お正月。
世の中の人は家族で新年を祝っているらしい。でも、新道隆はひとりぼっちだったので、昼ごろまで寝ていようと思っていた。初島医院にも、橋本の家にも、行ってはいけないような気がした。みんな家族だけで過ごしたいのだ。言われなくてもわかる。自分には行く所がない。
アパートの大家が同情して餅を分けてくれたので、それで三が日はなんとかするつもりだった。当時は、三が日といえば、店は休むのが当たり前だった。
夜中、誰かがドアを叩く音で目が覚めた。眠い目をこすってドアを開けると、そこには初島緑がいた。疲れているように見えたが、目は奇妙にギラギラしていた。
「どうしたの?こんな夜中に──」
初島はいきなり新道に飛びかかってキスしようとした。しかし、相手の方がよけるのが早かったし、背が高すぎて顔まで届く間がなかった。
「何すんの!?」
新道は真っ赤になって叫び、夜中だということに気づいて慌てて声を落とした。
「こんな時間にいきなり来て、何の用?何かあったの?」
「あんたは最低」
「は?」
とまどう新道に、初島はきつい声で言った。
「あんたはなんのために存在していると思ってるの?私を助けるためじゃないの。良心ってそういうものでしょ?なのにあんたは自分のことしか考えてないんだわ」
「何言ってるかわからないよ」
「あんたに菜穂は合わない」
初島はこう続けた。
「菜穂は本当に純粋なんだから。いい子なんだから。男になんか渡さない」
「何言ってるかわからないよ」
新道が繰り返し言うと、初島は舌打ちをしてから走り去った。
「何だ、こんな夜中によ、もう2時だぞ」
隣に住んでいるおじさんが出てきた。
「いくら新年でも、夜中に騒ぐのはやめてくれや」
「すみません」
新道が頭を下げると、眠そうなおじさんはすぐ引っ込んだ。
何だったんだろう、今の……?
よくわからなかったが、新道は布団に戻ることにした。明日は特に予定はない。みんなは神宮に行くらしいので新道も行こうと思っていたのだが、菜穂に、
「行くなら3日にしよう」
と言われた。
「たぶん元日は親と一緒なんだろ」
橋本はそう言っていた。
「親にお前を会わせたくないんだよ。3日も絶対兄貴がついてくるぞ」
「そうなの?」
「厳しい家のお嬢様ってのはそういうもんだ。ところで、こないだ貸したトルストイはもう読んだんだろうな?」
「うっ……」
そして3日。家の食糧が尽きかけた頃、新道は神宮の入り口の大きな鳥居の前にいた。そこには既に、着物姿のかわいい菜穂と、兄の浩がいた。橋本の言ったとおりだった。ということは、やはり親には会わせたくないのか。新道は悲しくなってきたが、顔には出さないようにしていた。
「シンちゃ〜ん」
菜穂が微笑みながら手を振った。なんてきれいなんだろう。もう長い間会っていないような気がした。最後に会ったのは、12月の29日頃だったか。
「今年もよろしくお願いします」
新道はそう言って浩に向かって頭を下げた。橋本古書店の店主がそうするようにアドバイスしたからだった。浩も笑って『よろしく』と言ったが、すぐに険しい顔になって、
「大晦日の夜、初島んとこの子が君ん家に行ったんだって?」
と言った。新道は驚いた。なぜ知っているのだろう?
「みどりちゃんがねえ」
菜穂も困った顔をした。
「元日にうちに来て、『昨日は一晩中新道と一緒にいたわ』って言ったのよ?」
「えっ?」
新道は慌てた。
「違いますよ!確かに夜中に訪ねてきましたけど、ちょっと話しただけですぐ帰りましたよ。何しに来たのかは知りませんけど」
「やっぱりそうか」
浩が悲しい顔をした。
「あれはああいう子なんだよ。わざと嘘を言ってる。君、本当に気をつけた方がいいよ。噂になったら大変だからね」
「はあ……」
「ほんとにすぐ帰ったの?」
菜穂が心配そうに尋ねた。
「たぶん1分もいなかったと思う」
新道ははっきり答えた。
それから3人で北海道神宮の真っ直ぐな砂利道を歩いた。新道にとっては何もかも初めて見るものだった。境内に直進しようとしたら菜穂に腕をつかまれ、
「手を洗ってから入らないとだめよ?」
と言われた。見よう見まねでお賽銭を投げてから、菜穂に、
「シンちゃんは何をお願いしたの?」
と聞かれ、何か願い事をするものだということに初めて気がついた。浩は呆れて『もう一回行ってこい』と言った。新道はそのとおりにした。
今年もナホちゃんと仲良くできますように。
両親が早く見つかりますように。
早く市場が開いて食べ物が買えますように。
菜穂に何をお願いしたか聞いてみたが、教えてくれなかった。ただ、かわいらしく笑っていた。
それだけで終わればいい日だったのだが、アパートに帰った新道を待っていたのは、ドアの前に座り込んでいる菅谷だった。
「あれ?何してんの?」
新道が声をかけると、菅谷はうつろな視線を向けてきた。
「初島がここに来たんだって?夜中に」
「えっ?なんで知ってんの?ナホちゃんのお兄さんにも同じこと言われた──」
「あいつが言いふらしてるからだ!」
菅谷が叫びながら立ち上がった。
「昨日初島がうちに来て、『新道と一晩中一緒だったわ、わかるでしょ?』って、よりによってうちのババア──いや、母とお菊さんに言いふらしてたんだよ!」
「ええっ!?」
「どうなんだ?」
「ナホちゃんにも言ったけど、1分と話さずに出ていったよ」
「本当か?」
「本当だって!」
「そんなことだろうと思ったよ」
菅谷はため息をつき、菜穂の兄によく似た表情をした。
「お前がそんなことするわけないもんな。誰にでもわかることだ」
「そんなことって?」
「それはいいんだ」
菅谷は手をひらひらと振った。
「でも大変だぞ。初島のあの様子だと、知ってる家をことごとく回って言いふらしてるぞ」
「ほんと?」
「ああ、次はあそこん家行かなきゃ、とかわざとらしく言ってたしな」
「なんでそんなことするんだろう?」
新道は考え込んだ。理由がわからなかった。
「ただの嫌がらせだろ。それよりお前、もっと気をつけないと大変だぞ。先生の耳に入ったら面倒なことになる」
「初島先生に相談しようかな」
「初島の親か?やめといた方がいいぞ?」
「なんで?」
「親に止められるもんならとっくの昔に止めてるだろ」
菅谷は真面目に言った。
「だけど一応言っておいた方がいいと思うんだ」
「あっそ。勝手にしろ」
菅谷は風呂敷包みを持ち上げた。
「お菊さんが作ったおはぎだ。あのババ──いや、あの人、正月になんでこんなもん作ってんだろうな。中に入れろ。食うぞ」
「やった!!」
お腹が空いていた新道は大喜びした。
後でこの日を振り返ったとき、自分はなんて無知でのんきだったのだろうと、新道は自分で自分に呆れることになった。
それは、人生の中でも最も、
ありがたくない新年の始まり方だった。




