2016.12.27 火曜日 病院→研究所
そうなる、んじゃないかと、思ったわ。
病院で、あさみがとぎれとぎれにつぶやき、皮肉な笑みを浮かべた。橋本から、レティシアの話を聞いたからだ。
あんまきついこと言うなよ。
本人は真剣だったんだからな。
橋本が言った。近くで平岸ママも苦笑いしていた。実は久方もそこにいて、沈みきった気分でたたずんでいたのだが、彼の姿は今、誰にも見えていない。
あなたは、どうなの?
あさみが橋本に訪ねた。
どうって、何が。
地震を起こす女、のことよ。生きていたこ、ころの。
後ろの平岸ママが好奇心いっぱいの目をした。橋本はしばらく考えてから、
あいつはそういうんじゃねえよ。
と答えた。
なぜ、あなたを、蘇らせようとした、と思う?
あさみがさらに聞くと、橋本は、
執着だよ。
と答えた。
あいつは何にでも執着する。たぶん俺だけじゃない。
新道も根岸にもだ。
それだけ?
それだけって何だよ、十分な理由だろ?
橋本が言うと、あさみは『そうかしら?まだまだ聞き足りないわ』というような、少しおどけた表情をして見せた。
家が近かったから、よくうちに来てたんだよ。
それで向こうは俺のことを友達だと思ってたんだろ?
俺はあまり興味なかった。
ほんと?
本当だって。
あさみは平岸ママに目配せした。2人とも『怪しい』と思っていた。
その人、今、どこにいるの?
知らない。
どうやって暮らしてるのか気になるわね。
平岸ママが言った。
なぜか知らないけど、金は持ってたんだよ、かなり。
遺産相続でもしたの?
いや、違うと思う。殺人で指名手配されているからな。
橋本が言うと、その場の全員(久方も!)が驚いた。
殺人事件の時効は廃止されたから、今でも捕まえられるんじゃない?
その人、誰を殺したの?あなた?
平岸ママが尋ねた。
いや、俺じゃない。父親だよ。
父親?
あさみが身を乗り出そうとしたが、無理だった。
本人が言ってたんだよ。
俺が死んだ後に父親を殺したって。
なぜ?
平岸ママが聞くと、橋本は黙ってしまった。まだ何かあるなと平岸ママは思った。
あなたは、なんとも思って、なくても、
あさみが言った。
その女は、たぶん、あなたが、好きだったでしょうね。
わかってる。
橋本はそう言ってから話題を変えた。クリスマスの新橋早紀の話だ。平岸ママは聞いているうちにめまいがしてきた。そんな危ないことをしていたのか!何も起きなくて本当によかった。あの結城って人、見た目はあれだけど、意外と大人だったのね。
久方は後ろで『そういう話バラすのやめてくれないかな』と思っていた。早紀が知ったらまた激怒して橋本を激しく嫌うに違いない。でも、あさみはおもしろがっていた。
やっぱり、わがままなのよ!
若いって、そうなのよ!
手を叩くようなしぐさをして笑っていた。
それから3時間後、久方は古い植物図鑑の細密画を眺めながら、心を落ち着けようとしていた。レティシアの言葉や表情の一つ一つが蘇ってきた。
彼女はここに来るべきではなかった。
でも来た。なんで来たのかもよくわからないが、勝手に一人で納得してフランクのもとに帰っていった。
あとには混乱した久方だけが残された。それに加えて『あの人は父親を殺した』という情報まで入ってきた。何か知らないかと、早紀と高谷修平に聞いてみたが、早紀からは橋本と奈々子の悪口が返ってきただけで、高谷からはこう来た。
初島医院の院長、1980年に刺殺体で見つかってるんですよ。娘の緑はその日から行方不明です。だから犯人として指名手配されているんですよ。
とっくの昔に知っていたらしい。なぜもっと早く教えてくれないんだ!?と久方は叫びたかった。
何かが起きたのだ。
それがあの人を狂わせたのかもしれない。
でも、なぜ?何が起きたのか?
あんま深く考えないほうがいいと思うけど?
昔のことは。
さんざんピアノをかき鳴らしてから降りてきた結城は、話を聞くと、めんどくさそうに言った。
今悩んだって、
過去に起きたことは変えられないんだって。
それよりこれからどうするか考えれば?
神戸にはいつ帰るんだ?
もう2年か3年は帰ってないだろ?
年末年始くらい帰れば?
今年はサキ君と初詣に行くんだよ。
またサキ君か。
まあいいよ。
いずれいなくなるってことを忘れるなよ。
結城はそれだけ言って、またテレビを見始めた。今日は韓国のアイドルばかり見ている。『やっぱレベル高いよなあ』などとつぶやきながら。
散歩に行こうかと思ったが、外は吹雪だ。風も強く、窓どころか建物全体が揺れている。今外に出るのは危ない。久方は2階に行き、自分の部屋に戻ったが、落ち着かずに廊下に出て、客間を眺めたりした。つい先日までレティシアが眠っていた場所。ここで何を思っていたのだろう。
もう夢を見るのはやめよう。ここもいずれまた保坂が使うようになるかもしれない。結城や他の人に聞いた話だと、あの家の状況は今もガタガタだった。『変な親ならいないほうがマシ』と保坂自身が言っていたこともある。いずれまた家を出てくるだろう。
それに、来年にはまた駒が遊びに来る。
天候が良ければいいが。
久方は部屋のものを片付けようと思った。固形の水彩絵の具とスケッチブックが出てきた。絵を描かなくなったのはいつからだろうかと考えていると、かま猫が近づいてきた。猫の絵を描こうかと思ったが、いつも動いているから難しいだろうなと思った。猫達がのんびり止まっている時は、たいてい久方が他のことで忙しい。
久方はスケッチブックを元の場所に戻し、また1階に戻った。結城はまだテレビを見ていた。久方はレティシアの絵の前に行き、何度か手を伸ばして引っ込めた後、思い切ってそれを手に取り、キッチンの燃えないゴミの中に放り込んだ。もう忘れよう、と自分に言い聞かせながら。
アイドルの歌がうるさく感じられたので、雪の中だか、外へ出てみることにした。玄関の除雪でもしていれば気が紛れるだろう。
雪は、人の心を絶望からそらすために降ってくるのだろうか。
久方はふと思ったが、自分は絶望なんかしてない、大げさだ、と思い直した。




