2016.12.26 月曜日 研究所
レティシアは帰っていった。
ドイツに。フランクの所に。
久方はぼんやりとそのことだけを考えて、カウンター席から外を見ていた。自分は一生こんな風に、他人の人生を窓から眺めているだけなのだろうか。人生に参加することはないのだろうか。そんなことを考えていた。
後ろに何かの気配がした。
久方が振り向くと、そこには、小さい頃の自分がいた。
前に現れた時よりは子供らしい目をしていたが、やはり責めるような表情をしていた。何かに怒っているようなのだ。
どうして怒ってるの?
久方は尋ねたが、子供は答えない。ただじっと、大人の自分を見つめ続けている。
どうして僕の前に現れるの?
聞いてみたが、答えはない。ただじっと見つめている。
僕にどうしろっての!?
久方は視線に耐えかねて叫んだ。
所長、どうしたんですか?
そこにいたのは、またしても早紀だった。クリスマスに贈った青いストールを巻いていた。
なんでもない。
久方は手で顔を押さえ、何度か瞬きした。
子供は消えていた。
レティシアさん、帰ったんですね。
早紀が言った。
結城に聞いたんでしょ、レティシアのこと。
久方は苦笑いした。もう自分で自分を笑うしかない。『好きな女の人にはもう婚約者がいて、それは別れた原因の浮気相手でした』なんて、どこのメロドラマだろう。
婚約してたんですよね。ひどくないですか?
所長優しすぎますよ。平岸家のごちそうなんか食べさせちゃダメですよ。とっとと追い出せばいいのにって結城さんも言ってましたよ?
サキ君、クリスマスは結城と一緒にいたんだね。
私じゃないです。奈々子が悪いんです。勝手にバスに乗って札幌に行っちゃったんです。
それから早紀は札幌で起きたことを話し始めた。奈々子が結城にすがりついて泣いていたこと。完璧だった人生の話。早紀が体に戻ってからの結城の突き放したような態度。久方はそれを聞いて安心していた。もし結城が早紀に手を出すようなことがあったら、絶対に許せないと思ったからだ。
奈々子さんを責めちゃダメだよ。
久方は言った。
行いはもちろん良くないけど、
きっとどうしようもなかったんだと思う。
それに、いつまでも怒り続けていると、
サキ君の体によくない。
早紀はこれを聞いてちょっと不満そうな顔をした。
ケーキがまだ残ってるから食べたら?
レティシアさん、食べなかったんですか?
甘いものはあまり好きじゃないって。
早紀がケーキを取りに行っている間、久方は考えていた。
創、あなたは、あの双子の子を愛しているわよね?
レティシアは、別れ際、久方にそう言った。
あの家で、あなたがあの子を見る目で、わかった。
たぶん他の人も気づいているはず。
違うよ。サキ君はそんなんじゃない。
まだ自分で気づいていないのね。
あんなにそっくりな目をしているのに。
レティシアはそう言って去っていった。
そうなのか?いや、違う。だってサキは学生だし、自分は10歳近く年上の大人だ。たとえ見た目はそう見えないとしても──。
まだ悪くなってないですよねこれ。
大きいから半分ずつ食べましょう。
サキは自分でケーキを切ろうとしたが、下手だったので潰れてしまった。崩壊したケーキを2人で突っついていると、天井からスカルボが響いてきた。
結城!またラヴェルを弾いてる!
しかも邪悪なスカルボだ!
いいですよ別に。ほっとけばいいんですよもう。
早紀はふてくされた顔をしていた。久方はそれを見て心配になってきた。さっき『一晩一緒にいたのに何も起こらなかった』と文句を言っていたからだ。何か起こってほしかったのだろうか?また何か起こす気だろうか。頼むからやめてほしい。でも今どきの若い子に『もっと自分を大切にしなきゃだめだよ』などと言っても通じないだろう。
あ〜!そうだ!思い出した!
所長!服のサイズ教えてください!
早紀が叫んだかと思うとスマホを取り出し、なぜかポケットからメジャーも出した。ものすごく嫌な予感がした。
クリスマスプレゼント買うの忘れてたから、これから服買いに行こうと思うんですよ。
所長っていっつも白衣か黒いシャツばっかりじゃないですか。ダメです。今は男子も見た目が重要なんですよ。
ジャケット買いましょう。
いや、いいよ、いらないよ。
久方はこころもち後ろに引いた。心はその千倍くらい引いていた。
遠慮しないでくださいよ〜!
何か買わないと私の気が済まないです。
とりあえず今着てる服のサイズ見せてくれます?
早紀が久方の着ている服に手をかけようとした。久方は反射で逃げ出した。早紀は追いかけてきた。遊びと勘違いしたのか、かま猫とシュネー、なぜかポット君まで、一緒に走り出した。
おい、何だ!?なんの騒ぎだ?
結城が降りてきて、走り回っている人々と猫とロボットを見て大声をあげた。
服のサイズが知りたいのに、教えてくれないんです!
早紀が叫んだ。
あ〜、なるほど。
結城が気まずそうに視線を天井に向けた。
久方さ〜、体が小さいの気にしてるんだよね。
だからじゃない?
早紀の動きが止まった。ポット君も止まった。顔に『しまった!』と言いたいような表示をして。
そうか、ごめんなさい──あれ?所長?所長〜!
どこ行ったんですか〜!?
久方は姿を消していた。
朝のうちに除雪しておいて本当によかった。そうでなければ散歩もできなかっただろう。
久方は自分が作った畑のまわりの道を何度もうろうろと歩いていた。ここ数日の大雪のせいで畑に雪山がいくつもでき、大人の背の高さまで積もっていた。
大人の背の高さ。
その発想にため息が出る。自分の体のことを気にしても仕方がない。それはわかっている。なのに『小柄だから、子供用の服じゃないと合わない』ということを、早紀にらどうしても知られたくない。でも今頃結城がバラしているだろう。人並み以上に背が高い、雪山からでもあたりを眺められそうな嫌味な奴が。
早紀は時々気まぐれに変なことを言い出す。このまま付き合っていたらそれに振り回されそうだ。いつもならそれも楽しいのだが。
いや、付き合ってるわけじゃない。
そんなことを考えてはいけない。
所長。
早紀が外に出てきた。
あの、すみません。
私、失礼なことを言いましたか?
早紀は気を遣っている様子だった。久方はそれが気に入らなかった。
いいよ別に。
久方はそう答えた。
僕にプレゼントしなきゃいけないなんて思う必要ないよ。
久方はそう言いながら建物に戻った。何をかっこつけてるんだと自分を罵りながら。
1階の部屋では結城がいつものようにテレビを見ていた。クリスマスの番組を撮りためたものを見ているらしい。こいつのクリスマスも悲しそうだなと久方は思った。せっかく早紀と一緒にいたのに手を出さなかった。それはありがたい。でも何を考えているのだろう?
早紀と2人でコーヒーを飲んだが、2人とも口数が少なかった。ただし、早紀はまだ服を買うことを諦めていないらしく、今度一緒にユニクロに行こうと何度も言ってきて、久方はかわすのに苦労した。そのうち結城は2階へ戻り、『ハンガリー狂詩曲』をコミカルに弾き始めた。
この騒ぎのおかげで、久方はレティシアのことをほとんど忘れていた。その代わり、彼女の、
あなたは、あの双子の子を愛しているわよね。
この声だけが何度も蘇ってきて、久方はその度に振り払っていた。
違う、そういうのじゃない。
何も気づいていない早紀は、猫達と遊びながら、
そうだ、佐加がファッション好きだから、
メンズのこともよく知ってますよ。
と恐ろしいことを言い出した。久方は、
やめて!それだけはやめて!
と叫び、早紀は少し意地悪な笑みを浮かべた。からかわれていると気づいたのは、夜になってからだった。




