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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年12月

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2016.12.25 日曜日 サキの日記

 今年のクリスマスは最悪。さっきまで平岸夫妻に、どこ行ってたんだ、何をしてたんだと聞かれてた。昨日の夜、私が突然姿を消したからだ。正確に言うと、奈々子が勝手に私の体を使って、復旧したばかりのバスに乗って札幌まで行ってしまったのだ。

 昨日は朝から平岸ママがごちそうを並べ、あかねがまた『太る!』と文句を言って、だいたい予想どおりのクリスマスになりそうだった。そこに、所長とレティシアさんがやってきた。きれいな長い茶色の髪に、緑色の目で、とても優しそうな雰囲気の女の人だった。2人は時々お互いを見て笑っていた。あ、ヨリ戻しそうだなとその時点では思った。でも、後で結城さんから聞いた話は違った。


 あの女はな、別な男と婚約してたんだって。それで、独身最後の旅を楽しみに日本に来たんだって。


 ひどい。所長は無理して明るくふるまっていたのだ。なのに私は勘違いしていたので、なんとなくよそよそしく当たってしまい、後ですごく後悔した。

 奈々子は札幌に着くなり、結城さんのマンションに直行しやがった。音楽教室の住所を覚えていたらしくて、そこが今の結城さんのすみかになっていた。

 奈々子は何の遠慮もなくインターホンを鳴らした。結城さんは部屋にいた。初めは私自身が来たと勘違いしたらしいけど、奈々子が、


 サキじゃない。私。

 昔ここに来てた人。わかるでしょ?


 と言った。しばらくの沈黙ののち、ドアが開いた。結城さんは固い表情をしていた。奈々子は『今時間ならススキノで遊んでるかと思った』と言ったが、結城さんはそれには答えなかった。中には大きなスピーカーと、CDやLPのプレーヤーがあって、いくつかのCDケースが床に散らばり、クリスマスらしくない暗めの洋楽が流れていた。


 クラシック以外も聴くようになったんだ。


 たまにはね。


 結城さんは自分がいたはずの部屋をなぜか遠い目で見て、悲しげな表情をしていた。結城さんがそんな顔するの初めて見た。


 なんで札幌にいる?しかもこの大雪で。

 よく来れたよね。


 ちょうどバスが復旧した所に当たった。


 奈々子は一度そう答えてから、首を横に振った。


 いえ、そうじゃない。サキの意識がなくなったから。

 たぶん、創くんが彼女を連れてきたせいで。


 へえ、あいつ平岸家に行ったの?あの女連れて?

 バカだね〜。

 

 結城さんがいつもの明るい調子に戻って言った。


 ちょっと前に俺に知らせてきたんだけど、

 あの女、もう他の男と婚約してるらしいよ。


 奈々子も驚いたし私もショックを受けた。


 独身最後のお楽しみで日本に来ただけなんだって。

 久方もバカだよね〜。自分のことなんか何も考えてない女にまで親切にしてさあ。俺だったら叩き出すけどね。


 奈々子はしばらく何も言わなかった。部屋の中を見回し、廊下をのぞき、棚に入っている本や楽譜を眺めたあと、


 みのり先生はどこ?


 と尋ねた。


 亡くなったよ。交通事故で。


 という答えが返ってきた。


 もうだいぶ前の話だ、どうでもいい。


 結城さんは何かを振り払うように手と首を振った。


 それより、新橋の体を使うのやめろ。

 こんな所まで連れてくるなんて何を考えてんの?


 私も始めは、少し散歩して帰るつもりだったの。だけど、駅前まで行ったら、ちょうどバスがいたからつい乗ってしまって。


 つい乗ったじゃねえよ。代金は新橋の金だろ?

 何考えてんだ?今すぐ帰れよ。


 サキの相手してあげて。


 奈々子がまじめにそんなことを言った。


 せっかくのクリスマスなのに、追い返されるだけなんてかわいそうじゃない。一日くらい遊んであげなさいよ。


 何言ってんの?


 奈々子は結城さんに背を向けて廊下に出て、かつて練習ブースだった場所や、ピアノが置いてあった場所──今は何もない──を見て回った。


 本当に、何もなくなったんだ。

 それくらい時間が経ってしまったんだ。


 ひとり言をつぶやいた。目から涙が溢れてきた。また泣くのかと私は思った。この日奈々子は既に何度か泣いていた。バスの表示に『札幌』の文字を見た時、バスの座席から見覚えのある風景を見た時、売店でカプリコ(子供の頃よく食べていたお菓子らしい)を見つけて、私のお金で勝手に買って食べていた時。カプリコをかじりながら泣いている女の子を見て、通りすがりの人が気まずそうに目を伏せていた。恥ずかしすぎるしめっちゃ腹立つ。だってそれ、他の人から見たら、私がやってるように見えてしまうじゃないか。

 泣いている奈々子(私)の後ろから結城さんが近づいてきて、そっと抱き寄せた。体使ってない()()なぜかピリピリしたものを感じた。嫉妬かもしれない。奈々子はしばらく泣きじゃくり、結城さんは優しく背中をなでていた。私が傷ついているのも知らずに。


 わかってる。もうどうにもならない。

 

 しばらくしてから、奈々子は言った。


 でも、今頃気づくなんて、なんてバカなんだろう!

 私の人生は完璧だったの。少なくともあの時点では。

 家族がいて学校があって友達もいて好きな歌も出来て。

 なにも欠けた所なんてなかった。

 なのに、生きていた時は気づかなかったの。

 何かがおかしい、何かが間違っているって。

 でも、なにも間違ってなんかいなかった。

 どうして気づかなかったんだろう?

 完璧だったのに。


 そういうもんだよ。若いってのはさあ。


 結城さんが言った。


 なんでも知ってると思って偉そうな口をきくけど、

 実はなにも知らない。ガキってのはみんなそうだ。


 あんたもいい人だったんだよね。


 あれ?今頃気づいたの?


 結城さんがおどけた顔をした。なんだか見たくない表情だなと思った。


 ただのやな奴だと思ってた。


 だろうね〜。わかる。実際今でもやな奴だし。


 そんなことない。あんたはいい大人になった。


 奈々子が笑った(私の顔で!)結城さんはちょっと気まずそうにしていた。


 サキをどこかに連れてってあげて。

 私はもう引っ込まなきゃ。


 わかったよ。

 人の失敗の後始末するのは気が進まないけど。


 ごめん。


 もう出てくんな。


 奈々子は笑い、意識が私に戻った。私は結城さんの腕から飛び出し、部屋から出ようとして、転んで壁に激突した。


 大丈夫〜?すごい音したけど今。


 結城さんがいつものバカにした声で言った。私は床にうずくまった。そのまま溶けて消えてしまいたかった。




 その後、結城さんは自分の寝室を私に譲って別な部屋に引っ込んだ。私は、せっかくクリスマスに札幌来たんだからどっか店に行きたいと言ったのに『ガキが出歩く時間じゃない』と一蹴された。時刻はもう0時を過ぎて、25日になっていた。

 私はムカついていたので、ベッドの上で暴れ、何もかもをぶん投げ、投げた枕と毛布をつかんで引き戻して匂いをかいだ。我ながら怪しい行動。いつかのあかねのようだ。毛布からは男の汗臭い匂いがして、私はその汗臭さにくるまっていじけた。奈々子と話す時と私と話す時では、結城さんの態度がかなり違う。私は完全に子供扱いだ。

 大人扱いされたい。

 私はベッドから出て、結城さんを探した。結城さんは昔ブースがあった場所に椅子を置いて、ぼんやりと座っていた。

 何してるんですかって聞いたら、


 今でも、聴こえてくるような気がするんだよなあ。


 と、空中に向かってつぶやいた。


 奈々子の声は普通じゃなかった。

 天才だったんだよ。


 と言った。目つきがうつろだった。私はまた奈々子の話になったので機嫌が悪くなり、こんなとこに閉じこもってても気が滅入るだけだから外出しましょうよと言った。


 久方にケーキ買ってくって約束しちゃったから、

 明日三越の地下でも行こう。


 ケーキ。また子供扱いされた気がした。そうじゃなくて、夜開いてる店に行きたいと言ったんだけど、『未成年はダメ』『大人になってから自分で行け』と言い続けるだけ。

 結局元の汗臭い毛布に戻ってふて寝。泣きたいのに涙が出てこなかった。奈々子が私の体を使って泣きすぎたせいだ。ムカつく。

 とにかくみじめだった。このまま眠って、目覚めたくないと思った。でも7時には起きた。結城さんは近所のカフェのモーニングをおごってくれた。レトロな雰囲気で、ビルの地下にあって、昭和の頃から貼りっぱなしに違いない色あせたポスターやチラシが壁を覆っていて、ランプは厚い色ガラスでできていた。ランプがきれいだったので写真撮ってたら、


 わお、ナギちゃん、久しぶり〜!


 ゲイっぽいおじさんが、結城さんを見てキラキラした目で笑った。結城さんはちょっと苦い笑い方をしていた。おじさんは私を見て、


 やだ、こんな若い子と朝帰りなのォ〜?


 と言った。本当にそうだったらよかったのに。

 結城さんは『そんなわけないから』『ただの知り合いの子だから』と言い訳していた。その言い方にも傷ついた。早く自分の部屋に戻って本気でふて寝したい気持ちと、せっかくここまで来たんだからもう少し押してみたい気持ちが、私の中でぐらぐらしていた。

 ゲイっぽい人はススキノで小さなバーをやっているそうで、『大人になったら友達連れていらっしゃい』と言ってくれた。口調がカントクに似てて、ちょっとだけ劇団が懐かしくなった。ある意味、水商売も劇団に近いのかなと思ったり。

 デパ地下が開くまで時間があったので、街中を歩いた。ここ数日の大雪で、札幌は結城さんの背くらいある雪山に覆われてしまっていた。道が悪く、歩きにくい。地下に入ったら、日曜の朝なのにけっこうな数の人がいた。


 結城さん、どうして所長と一緒に秋倉に来たんですか?


 聞いてみたくなったので口に出してみた。


 結城さんって都会向けの人ですよね?なのにわざわざあんな田舎で人の世話する仕事してる。それってやっぱり──奈々子のためですか?


 いや、どっちかというと自分のためだな。


 結城さんがあたりを見回しながら言った。


 初島を探すためじゃないんですか?


 それもあるけど、一番はやっぱり、いろいろ納得がいってないから。


 いろいろって?


 いろいろ。


 あまり話したくなさそうだった。だけど私は聞きたいことがたくさんあった。奈々子がいなくなってからどんな生活をしてたのかとか、本当は好きなんじゃないかとか、私が大人として見られるためにはどうしたらいいのかとか。

 聞き出せたのは、奈々子がいなくなってから2年後くらいにお母さんが事故で亡くなって、そのあとピアノのコンクールで賞は取ったけど、あまり活動はせずにだらだら遊び暮らしていて、そのうちどこかの女社長といい仲になったけどケンカして──という、はっきりしているようなしていないような話だった。その女社長がたまたま神戸に知り合いがいて、それが所長につながったらしい。本当に、偶然に。


 そういや新橋、久方のこと何だと思ってんの?


 今度は結城さんが聞いてきた。


 昨日奈々子が、意識を失ったのは、久方が女連れてきたのが気に入らないからじゃないかって言ってたけど。


 それは違いますよ。あの時はまだうまくヨリを戻せたんだなよかったなって思ってたし、奈々子が勝手に出てきただけですよ!


 それはどうかな。


 結城さんは意地悪な笑い方をした。


 結城さんこそ、いつまで所長の所で迷惑ピアノを続けるつもりなんですか?ピアニストとしてもう一度やりたいとか思わないんですか?


 結城さんは答えなかった。そのうち三越の地下が開いたので、所長のためのケーキを探して店内を歩き回った。かわいいものがたくさんあって目移りする。いちごが表面いっぱいに並んでるケーキがあったので、それにした。『久方に合うよね、ガキくさくて』と結城さんが言ったので、いいかげん人をガキ呼ばわりするのやめろと言ったら『ガキはガキなんだって』と言い返されたので、車に戻るまでずっと口論してた。結城さんだって大人らしい人生送ってないじゃないですか、仕事してないし、とうっかり言ってしまい、ものすごく機嫌が悪くなってしまった。


 人生経験のない奴が吐く正論ほどムカつくものはないんだって。だいたい他人に聞いた常識を何も考えずにそのまま口に出してるだけなんだから。

 そういう奴に限って、実際に世の中に出たら正論どおりになんかいかないって気づいて、バカみたいに揺らぐんだって。何が正しいか自分で体験してないから。


 そんなことを、秋倉に帰るまでずーっと聞かされ続けた。でも『仕事してない』って言葉で怒り出すってことは、一応気にしてるんだな、自分の変な生き方。

 研究所に着いて、私はアパートに帰ろうかと思ったんだけど、


 あれ?そんなに久方の女に会うの嫌なの〜?


 結城さんが意地悪なので、一緒に中に入ることにした。1階に所長がいて、猫達にエサをやっていた。


 レティシアは平岸さんに会いに行ってるよ。

 アニメオタクどうしで仲良くなっちゃったみたい。


 所長はあくまで明るく笑っていたけど、私はそれが切ないと思った。先にケーキを食べてしまうことにした。ケーキは結城さんの手できれいに4等分され、そのうち一切れを冷蔵庫へ。私は、その一切れも食べてしまおうかと思った。所長を愛していない人に食べさせるケーキなんか、ここにはないと思った。

 

 ケーキを食べた後、かま猫と少し遊んで、所長が『レティシア、今戻ってくるって』と言い出した時に帰った。道ではちあわせしたくないので裏道をうろうろしていたら、背の高い女の人が茶色い髪をなびかせて建物に入っていくのが見えた。何を考えてここにいるんだろう?腹が立ってきた。考え事しながら歩いてたら雪に足をとられて思いっきり転んだ。今も手がヒリヒリする。

 平岸家に行ったら、平岸夫妻に、昨日はどうしたのか、どこで何をしていたのかと聞かれたので、正直に札幌に行って結城さんに会ってましたと答えた。心配するようなことは何も起きていないと念を押しておいた。


 久方さんはともかく、

 あの助手は危ないと思ってたんだよなあ。


 平岸パパがしぶい顔でつぶやいた。出入り禁止にされては困るので、ひたすら謝って解放してもらった。アパートに戻る時、あかねが近づいてきて、


 ヤったの?


 と聞いてきたので、思いっきり突き飛ばして、走って逃げてきた。部屋にいたら修平が『大丈夫?』と聞きに来た。奈々子が札幌に行ったことだけ伝えた。


 たまには懐かしくてたまらなくなること、

 あるんだろうね。


 修平は奈々子に同情していた。カッパめ。ムカつく。

 私は疲れたからと部屋にこもった。実際、疲れ切っていた。ちゃんと眠れなかったし。自分のベッドで安心したかったのに、いざ毛布にくるまると、結城さんの部屋のあの汗臭い毛布を思い出してしまって、やっぱりあの部屋で溶けて消えてしまえばよかったと思った。みじめだった。眠ったままもう起きたくないと思ったのに、いろんな考えがいっぺんに襲ってきて、眠れない。









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