2016.12.23 金曜日 研究所
君は、来月、結婚するんだよね?
それは、口にするだけで心が割れそうな事実だった。
レティシアは今、シュネーを抱き上げて、愛しげな表情で何か話しかけていた。栗色の髪、草原を思わせる緑色の目。その目がこちらを向いた。昔はそれだけで幸せだった。
なのに──。
はい。
フランクと。
そう、フランクと。
レティシアは日本語で答えた。元々アニメが好きで、日本語も昔から勉強していたので、会話には全く支障がなかった。
じゃあ、なぜ、今ここに来たの?
過去に『さようなら』を言うために。
レティシアは困ったように微笑んだ。
本当に結婚してもいいのか、考えました。
なぜかあなたのことを思い出した。
どういうこと?
久方は聞き返したが、レティシアは猫をなでていて答えない。
今日は歴史的な大雪になっていた。JRは全て止まり、道も通行止め。雪はいつまでも降り止む気配がなく、出かけることができない。今日は家から出ずに過ごすしかない──他の男と婚約している女性と。
レティシアが話したくなさそうなので、久方はパソコンに向かっていた。しかし集中できない。なぜこんなことになるんだろう?自分は何を期待していたのだろう?そもそもなぜ彼女は自分の所に来たのだろう?フランクは今何をしているのか。彼女が日本に来ていることは知っているらしい。
みんな何を考えているのだ。
久方にはさっぱりわからなかった。
かま猫がカウンターに飛び乗り、キーボードの上に寝そべった。画面に変な文字がたくさん表示された。久方はかま猫を抱えて床におろした。しかしかま猫はまた乗ってきた。同じことを数回繰り返した後、パソコンを使うのは諦めることにした。
レティシアはソファーで、シュネーと一緒にくつろいでいた。おおらかにくつろいだ様子で、まるで自分の家にいるかのようだ。そこも久方には引っかかった。明日からクリスマスなのに、婚約者をほったらかしてこんな極東の国に来て、しかも安らいで見える。
意味がわからない!!
レティシア。
久方は、話したくないと思いつつ声をかけた。
君は、未来の夫と話し合うべきだよ。
もう話した。さっき。テレビ電話で。
いや、そういうことじゃなくて。
フランクはもうわかっているから。
何を?
私にこうする必要があるということを。
なんで?
レティシアは笑ったが、やはりなにも答えずにシュネーをなでていた。
久方はやることもなく時計を見た。まだ昼にもなっていない。レティシアが来るとわかってから、予備の部屋を掃除し、シーツを良いものに変え、食材も本当にいいものだけを取り寄せた。その全てが、今となってはバカバカしく思える。
なぜレティシアはここにいるのか。
久方はまだ希望を捨てきれていなかった。もしかしたら、フランクと結婚するのは嫌なのかもしれない。本当は自分のことをまだ愛してくれているのかもしれない。そんな期待があった。それに、同じ部屋にレティシアがいるだけで、自分が幸せを感じる。それは婚約の話を聞いても、なぜか変わらなかった。
久方はカウンター席に戻ったが、パソコンは見ず、レティシアがくつろいでいる様子をじっと見つめていた。昔と同じだ。近くにいるとなかなか目を離せない。前はもっとやせていて細すぎるくらいだったが、今は健康的に、おおらかに見える。幸せなんだろうと思うと、久方の心はなぜか痛む。自分がいなくても、彼女は幸せに暮らしていたのだ。
レティシア。
なに?
隣に座っても?
わざわざ聞かないで。
久方はそっとカウンターの椅子からおりて、ゆっくりとソファーに近づき、そっと、レティシアの隣に座った。何かがふわっと香った。レティシアの髪の匂いか、体の匂いだろうか。昔香水の名前を聞いたような気がするのに思い出せない。意外だ。久方は思った。自分が彼女に関することを一つでも忘れるなんて。
意外ね。
レティシアが言ったので、久方はビクッと身を震わせた。心を読まれたのかと思った。
あなたは変わった。昔はそんなこと聞かなかった。
そう言うのを聞いて、久方は真っ赤になった。昔の自分の行動を思い出したからだ。彼女がいるととにかく嬉しいので、何も考えずに近づいていってしまっていたのだ。今思うとなんて子供っぽい行動だろう。しかし、それが悪いことだとは全く思っていなかった。彼女はいつも笑顔で迎えてくれていたから。彼女は女神だったから。
そう、女神だった。
今、彼女は別な男と婚約している、普通の女性だ。久方はさきほどから自分にそう言い聞かせようとしていた。あまりうまくいっていなかったが。
シュネーがレティシアの手を離れて、久方の膝に乗った。久方はそっと白い猫をなでた。せっかく隣にいるのに、彼女と目を合わせるのがなぜか怖かった。見てはいけないものが見えてしまうような気がした。なぜかはわからないけれど。
ニースに行った時のこと、覚えてる?
レティシアが言った。もちろん覚えていた。裏路地のカフェで初めて食べたソッカの味。レインボーチャードの驚くような朱色、オリーブオイルの店のあの香り!狭い路地にひしめいている何もかもが、感覚を刺激して心を高揚させる。何より、あの時のレティシアの美しさ──彼女は紺地に白い水玉のワンピースを着て、薄いレモン色のショールを巻いていた。動くたびにそれが優しく揺れた。何よりその夜の──。
ここまで思い出して、久方の心は一気に高揚し、急に底まで沈んだ。一言も言葉を発することができなかった。今となっては全てが悪い夢のようだ。
あなたはまるで天使のようだった。
レティシアが言った。久方がやっと彼女の方を見た。抗議したい顔で。
やめてよ。みんな僕のことを妖精だとかゆるキャラだとか言うんだから。
あなたが、おそらく、純粋すぎるから。
レティシアが言った。
それもやめて。僕は純粋だったことなんかない。むしろいつも逆の所にいた。いつも混乱してた。あんなにトラブルを起こしてたのにそれが伝わってなかったなんて信じられないよ。
レティシアはしばらく久方をじっと見ていた。その見つめ方は、知っている人を見る目ではなく、何か新しいものを発見した時の見方だった。それに久方はショックを受けた。
ああ、この人は、僕のことを何も知らなかったんだ!
でも、僕も人のことは言えない。
久方はうつむいて、両手で顔を覆った。
僕も、君のことを、女神だと思ってたから。
正直に言ってしまった。恥ずかしくて顔を上げられない。しかし本当のことだ。
私は女神ではない。
レティシアが前方を見たままつぶやいた。
お互いに夢を見ていた。
そういうことだよ。ああ、でもなんでこうなるんだろう?確かに僕は幼稚だったかもしれないけど、でもあの時は本当に君のこと──。
沈黙が流れた。2人は同じ思いのまま固まって動かず、それぞれに昔の自らの落ち度を思っていた。決して憎み合ったわけではなく、むしろ愛し合っていたと言っていい。
しかし、何かが違った。
全てが幻想のようだった。
あなたの幽霊はまだいるの?
不意にレティシアが言った。
いるよ。
前に幽霊が言ってた。『お前は創を何だと思っているんだ!?』と。その後の内容は私にはわからない日本語だったけど、罵られていることはよくわかった。
フランクとの浮気がバレた時のことだ。
それは、僕がショックで動けなくなったからだ。
久方はまだ顔を上げられなかった。
代わりに出てきて怒ったんだ。
でも本当はそうするべきじゃなかった。
あなた自身が怒るべきだった。
久方が顔をあげると、レティシアは遠くを見ていた。
そしたら、何かが違っていたかもしれない。本当に悪かったと思っているの。私は謝ろうとした。でもあなたはそれ以降、私の前に姿を見せなかった。留学をやめて日本に帰ったと聞いた時は衝撃を受けた。私だけでなく、あなたを知っている全員が。みんなあなたのことを天使だとか、あんな純粋な人間は見たことがないと言った。私はみんなに責められました。あんな純真な人を傷つけるなんて──。
やめてよ。僕は天使じゃないし純粋でもない──。
わかってる。でも聞いて、あなたを知っている人は一人として例外なく、あなたがいなくなったことを悲しんでる。幽霊ではなく、久方創がいなくなったことを。
久方はレティシアを見た。今度は彼女の方が、久方と目が合うのを避けるように、遠くの、自分のパステル画に目を向けていた。
あれ、まだ持っていたのね。
久方は顔を赤らめてうなずいた。
そういえば、トシカズが、あなたには双子みたいにそっくりな彼女がいるらしいって言っていたけど?
リア充:槙田利数が余計なことを伝えたらしい。いや、奴に早紀のことを話したのはきっと結城だ。腹が立つ。
サキ君は彼女じゃない。僕に似てるだけ。近くに高校生が住んでるアパートがあって、学生がここによく遊びに来るんだ。それだけだよ。
私、その双子の娘に会ってみたい。
レティシアが急に久方の方に振り返った。2人の目が合った。前と変わらない強い目をしていた。優しいけれど、逆らえない。そして目が離せない──。
今日は無理だよ。
久方は震え声で言った。
雪が多すぎて誰も外に出れないし、明日もクリスマスだからみんな家族で過ごしたがるよ。一応聞いてみるけど。
久方はソファーから立ち上がり、カウンターの席に移ると、スマホで早紀に、明日レティシアを連れて行っていいか尋ねた。『平岸ママに聞いてみます』と返事があり、その20分後、『料理はたくさん作るからぜひ来いだそうです。既にキッチンがすごいことになってます』と、食材がずらっと並んだキッチンの画像が送られてきた。
明日来てもいいって。
久方が言うと、レティシアは花のように笑った。一瞬嬉しくなったが、もう彼女は他の男のものだということを思い出した。久方は気分を晴らすため、ポット君を連れて除雪に向かうことにした。コートを着て玄関に出ると、雪で埋まってしまっていて戸を開けるのに時間がかかってしまった。雪はいつまでも降り止まず、道の除雪には午後いっぱいかかった。
久方が中に戻ると、レティシアはソファーで眠たそうな目をしていた。膝の上にかま猫がいた。うらやましいと思いながら、久方はソファーではなくテーブルの方に椅子を引いて座り、そこからレティシアを眺めた。いつ見ても美しい。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
でも、そんなことは起きないんだ。
いなくなってしまうんだ。この人は──。
泣きそうになるのをじっとこらえ、久方はレティシアを見つめ続けていた。すると、彼女は目覚め、目の前に久方がいるのに気づいて、微笑んだ。
いつも、そんなふうに、そばにいてくれたのね。
レティシアはドイツ語で言った。それから、
すごく心強かった。そう、強くなれました。
と日本語で言った。
僕も強くなったらしいよ。槙田が言ってた。
全くそんな気はしないどころか、今すぐ弱って死んでしまいそうだったが、久方はレティシアのためにそう答えた。無理やり笑いながら。
僕は本当に、君のことが好きだった。
私も。
レティシアも微笑んだ。
だから、幸せになって。
久方はありったけの力をふりしぼってこう言った。これ以上もう何も話したくない。これ以上何か言おうとしたら『待って、行かないで』とかそんなことを言ってしまいそうだった。でもそれはよくない。もう大人なんだから。
ありがとう。
レティシアが手を差し出した。2人は軽い握手をした。友達どうしがふざけてするみたいに。
夕食は僕が作るよ。
この雪じゃ宅配も来れないだろうから。
久方はキッチンに行き、奥へ行って──倒れた。
もう限界だった。このまま2人きりでいるのは辛すぎる。久方は初めて、あの小うるさい助手がいないのを寂しく思った。ここにクリスマス中2人でいるのは辛い。出かけた方がいい。でも大雪で行く所はない。
もう平岸家に行くしかない──。




