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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年12月

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2016.12.20 火曜日 ヨギナミ 研究所へ

 ヨギナミは研究所に行くのをやめようかと考えていた。学校では早紀が杉浦に向かって『お前は来んな!』と何度も言っていて、見かねた佐加や奈良崎に『どうしたの?』と聞かれていたからだ。早紀は機嫌が悪く、その神経質な様子は母を思い出させた。今日、病院にはスギママがいる。きっと母は今頃、自分の悪口を並べ立てているだろう。

 窓の外は曇りでどんよりと暗い。今にも雨が降りそうだと思っていたら、帰りに本当に降ってきた。雨の中を、第1グループの4人と早紀で林の道を歩いた。所長は玄関でみんなが来るのを待っていた。隣に半円球の頭をしたロボットがいて、笑顔を表示していた。

 藤木が礼儀正しくあいさつをしている間に、佐加と杉浦はとっとと中に走っていってしまった。早紀がそれを見て呆れていた。ヨギナミは藤木のゆっくりした調子に合わせて、所長の後に続いて1階の部屋に入った。佐加が茶色と黒の中間のような色をした猫を抱き抱えて、何か話しかけていた。杉浦は部屋の中心に立ってあたりを見回していた。

 ヨギナミはここに来るのは久しぶりだった。前に来たのは、保坂におでんを届けに来た時だったか。その前はもう思い出せない。去年の夏に畑の野菜を分けてもらいに来たのは覚えている。あの時はおっさんのことをよく知らなかった。

 所長はさっきからにこにこしている。おっさんは今どこにいるのだろうとヨギナミは思った。一緒にこちらを見ているのか、それとも、眠っているのか。

 早紀は真っ先にテーブルにつき、ノートを広げて何か書き始めた。それから所長に勧められて全員が座っても、早紀が顔を上げる気配はない。きっと杉浦がここにいるのが気に入らないのだろう。子供っぽい態度だなとヨギナミは思った。

 杉浦は全く気にする様子もなく、自分も最近ドイツ語を学び始めたと言い出した。早紀が横目でちらっと杉浦を見た。藤木がそれに気づいて心配そうな目で杉浦を見たが、杉浦は全く気づかずにゲーテやカントの話を始めた。所長はよくわかるらしく面白そうに会話していたが、ヨギナミにはなんのことだかよくわからなかった。ただ、こんなエピソードだけが印象に残った。


 カントは借金を一切せず、手元に必ず金貨を何枚か残していたそうですよ。そうすれば、人が尋ねて来ても、借金取りじゃないことがわかっているから安心して歓迎できるってわけです。若い頃に学問と生活の両立に苦労したせいで、そういう習慣が身についたのでしょう。


 カントという人が何者か全く知らないが、お金に苦労してたというだけで、ヨギナミは親近感がわいた。それから、入院費用で貯金がなくなって、平岸家に頼るしかないという今の状況を思い出し、気分が沈んだ。杉浦と所長は他の人に構わずに、リルケの小説の話に移っていった。佐加は猫と遊んでいて話に入ってこないし、早紀はずっとノートに何か書いているし、藤木は時々うなずくだけで自分からは話そうとしなかった。

 ヨギナミは熱心にしゃべっている杉浦と、にこにこしている所長を交互に見ていた。おっさんと同じ顔、同じ体なのに、目の前にいる人は全く別な人なんだとわかる。不思議な気がした。今の会話をおっさんは聞いているのか、本の話ばかりする2人をどう思っているのか。そういえば、おっさんは古本屋の息子のはずなのに、母や自分の前ではあまり本の話をしない。自分から話すというよりは、母の様子を見て話を聞いてあげていることが多かった。それはなぜなのだろう?


 そういやさ〜、所長の元カノ来るんでしょ?

 どんな人?


 佐加が猫をなでながら大声で言った。所長の顔が赤くなり、杉浦はにやけ、藤木は目を閉じて口元を歪めた。早紀が初めてノートから顔を上げた。


 どうなんです?そうだ。

 文学作品に出てくる女性の誰に似てます?


 杉浦が変な質問をした。全員が所長をじっと見た。


 えーと……。


 所長がためらいがちに答えた。


 トニオ・クレエゲルに出てくる画家の女性に似てるかな。


 すると杉浦が『オォ〜!』と叫び、早紀は、


 それ彼女じゃないですよ。

 相談相手みたいな人じゃありませんでした?


 と言った。佐加は『わかんね』と言ってから、


 で、どーすんの?ヨリ戻すの?


 というストレートすぎる質問をした。早紀がちらっと佐加をにらんだ。


 いや、それは、わからない。


 所長はとぎれがちに答えた。そのあと、今度は杉浦がトーマス・マンの話を熱心に始めたが、所長はほとんどしゃべらなかったため、独演会のようになってしまった。そのうち夕方になり、所長は『シチューを作るから食べていきなよ』と言った。藤木と佐加はバスの時間があるからと言って帰り、早紀は残りたがっていたが、平岸あかねが怒鳴り込んできたので平岸家に帰ることになった。ヨギナミも一緒に帰ろうとしたのだが、


 あんたは残れば?ママには言っておくから。


 なぜか、平岸あかねは早紀だけをつかんで引っ張っていき、ヨギナミを置いていった。これは親切だろうか、それとも嫌がらせだろうか。


 あれ〜?珍しいね。与儀の娘いんの。


 いつのまにか結城が後ろにいて、ヨギナミを見てニヤニヤ笑っていた。


 いや、別に来てもいいんだけどね。

 新橋なんか、ここも自分の家だと思ってるフシがあるから。いっつも勝手に入ってくんだよ。人の部屋にさあ。


 ヨギナミはそれを聞いて、早紀の行動は危ないなと思った。相手が所長や顔見知りとはいえ、ここは男の家だ。そういえば保坂とスマコンが話していたっけ。早紀がここに入り浸っているのは良くないと。


 じっとしてるの苦手だったら、野菜切るの手伝う?


 所長が穏やかに声をかけてきた。


 本当は、藤木君ともっと話したかったんだけどね。


 野菜を冷蔵庫から取り出しながら、所長は意外なことを言った。


 たぶん杉浦君に遠慮しているのかな。自分からほとんど話さないでしょう。

 何を考えてあそこに座っていたのかなって。

 それに、あの佐加と付き合えるメンタリティの強さも気になるしね。

 

 藤木は優しいんです。それで、常識的なんです。

 佐加と杉浦が変なことをし始めたら、藤木が止めるんです。


 そうなんだ。

 で、ヨギナミは黙って見守ってるんだね。あの3人を。


 ヨギナミはこの問いには答えず、ニンジンやじゃがいもの皮をむいて切った。久方は肉の下処理をしていた。普段から料理しているのだろう。手付きが慣れていた。


 結城は全然手伝ってくれないんだよ。

 トーストすら焦がすし、すぐ『外でメシ食うぞ』って人を連行したがる。

 料理って言葉が何を意味してるか知らないんだろうな。


 所長はそう言ったきり、その後はほとんど言葉を発さず、ホワイトソースを作り、シチューが煮詰まるのをじっと眺めていた。ヨギナミは横に立ってその様子を見ていた。そのうちまた結城が来て、『腹減った』と言った。子供っぽい言い方だった。

 食事の間、所長と結城は『そういえば元カノの話した?』『その話はやめろ』と、しばらく元カノネタで言い争っていた。それから不意に結城が、


 与儀さん、あんましゃべらないけどさ〜、

 思ったことはもっとはっきり言わないと伝わらないよ?


 と言い出した。ヨギナミは驚いて目をしばたかせた。


 ヨギナミをからかうのやめろよ。


 所長は注意したが、結城はこう言った。


 からかってないって。たださ、この町の人ってみんな個性的っていうか押しが強いからさ、こっちもかなり強く出ないと言いたいこと伝わんない気がしてさ。

 与儀さん、どう思う?町の若者としては。


 ヨギナミはちょっと考えてから、


 押しが強いっていうよりは、オタクっぽい人が多いんだと思います。好きなものに夢中になってる人が多いんだと思う。


 ああ〜、平岸のやばい奴みたいな。


 結城が歪んだ笑い方をした。BL妄想でも思い出したのか。


 平岸さんの話はやめようよ。食事中に。


 所長が嫌そうな顔をした。


 そうだなあ。

 そういえば、今日新橋も来てたよね。

 何か言ってた?幽霊の話とか。


 その話は出なかったです。

 平岸家でもその話はしてないですね。


 そっか。あれでも一応友達には遠慮すんだなあいつ。


 それからしばらく3人とも黙っていた。雨の音に車の音がまじり込んできた。廊下から足音がした。平岸パパがヨギナミを迎えに来た。手には、妻が作りすぎた餃子の包みを持っていた。結城が喜んでそれを受け取り、所長は少し緊張した面持ちであいさつした。


 明日は病院へ行くかい?

 母さんを送ってくから一緒に乗ってくといいよ。


 平岸パパは所長にそう言った。所長は『伝えておきます』と言った。どういう風に伝わるのだろう?ヨギナミはそこを少し聞きたかったのだが、すぐに帰ることになった。

 所長とおっさんはやっぱり、全然違う人だな。

 ヨギナミは帰りの車の中でぼんやりと考えた。どちらも優しい人ではあるけれど、所長は引っ込み思案で遠慮がちで、自分から出てくるタイプではない。おっさんの方がケンカごしで、自分から人に近づいていく。


 何か知りたいことはわかったかい?


 平岸パパに言われて困った。何を知りたがっていると思われていたのだろう?それはわからなかったが、ヨギナミは、


 あの2人、全く違う人なんです。


 と答えた。

 

 一人の中に、全く違う人がいるんです。

 ほんとに、違う人です。


 そうだろうなあ。


 車はすぐに平岸家に着いた。なぜか早紀が玄関に立っていて、ヨギナミが車からおりるとすぐに、


 何か聞き出せた?


 と言われた。早紀まで。何を聞き出そうとしてると思われているのだろう。


 全く違う人。所長とおっさんは。それだけ。


 ヨギナミはそう言って足早にアパートに戻った。それ以上話したくなかったし、実際話すことなど何もなかった。ただ、みんなが自分に何かを期待しているということが、やや重く感じられた。みんな今の状態を『解決したい』と思っている。それで、その手がかりをヨギナミにつかんでほしいと思っているのだろう。

 ヨギナミは、何も変えたくなかった。

 これ以上、なんにも、変わってほしくなかった。






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