2016.12.17 土曜日 研究所
私、今日は文章を書く練習をします!
しばらく放っといていただけますか?
早紀は朝の8時に現れ、ノートをテーブルに置いた。お気に入りのペン立てまで持ってきて、気合いだけは十分に見えた。
それから3時間ほど経った今、ノートは放置され、早紀は暖房の前でかま猫と遊んでいた。久方が時々ノートを見ると、
壁に幸福商会のカレンダーが貼ってある。窓辺にカウンター席があり、所長はいつもそこに座っている。横にはソファーとテレビがあって──
と、事実だけが何行も書き連ねてあった。
ダメなんです。私、雑念が多すぎて、
目の前のことに集中できないんですよ!
猫じゃらしを振り回しながら早紀は言った。休憩した方がいいと思うと久方は言った。それから、
いっそその雑念もノートに書けばいいんじゃない?
と勧めてみたが、今早紀は猫達と遊ぶ方が楽しいようだ。
2階からはピアノの音がする。聴いたことがない曲だ。もしかしたら即興で作ったのかもしれない。保坂のせいでピアノ狂いまで自分で曲を作り始めた。超絶技巧が曲を作ると耳障りでたまらない。自分の技術をひけらかしたいだけにしか聴こえない音が、ゲリラ豪雨のように降ってくる。
外に出ようかと思ったが、今日は寒気のせいで気温がかなり低い。長時間の散歩はやめた方がよさそうだ。外で焚き火──いや、ダメだ。夢に流されてはいけない。火事の危険もある。たとえ田舎でも、昔ほど簡単に外で火を使うことは出来ない。禁止はされていなくても気がとがめる。時代も変わっている。
あの人は嘘つきなのか。
久方はぼんやりと思った。ということは、橋本の言うとおり、修学旅行で高谷修平が聞いた話も嘘なのだろうか。でもなぜそんなことをするのだろう。
こんにちわっす。なんすかこのやばいピアノ?
保坂までやってきた。早紀が猫じゃらしを持ったまま振り返り、保坂はそれを見てにやけた。早紀はそれが嫌だったのか、猫じゃらしを久方に向かって投げ、自分はテーブルに戻ってノートに何か書き始めた。
保坂は2階へ上がっていき、ピアノのレッスンが始まった。久方は昼食を作るためにキッチンへ向かった。ペペロンチーノでも作ろうと思っていた。
あいつらやりたい放題だな、いいのか?
声がした。久方は黙って笑った。ピアノ狂いは迷惑でしかないが、若い人が来るのは気が紛れていいと、最近久方は考えるようになっていた。一人でいると思い悩んでしまう。レティシアのことや、残酷なあの人のこと、未だによくわからない自分についても。
そのうちパスタが出来たので、久方は部屋に戻り、早紀に、
お昼にしよう。運ぶの手伝って。
と声をかけた。運んでいる時に開きっぱなしのノートの中が見えたが、『保坂ムカつく』から始まって延々と悪口が書いてあるのには驚いた。見てはいけないものを見てしまったような気がして、久方は自分を落ち着けるために、いつもより皿を優しくテーブルに置いた。
なんだ、もう作っちゃったの?
外食べに行こうと思ってたのに。
結城と保坂が降りてきた。4人で食事している間、早紀はたまにノートを手に取って何か書き込んでいた。久方は注意しようかどうか迷ったが結局言い出せなかった。結城と保坂はピアノのコードの話や、本人達にしかわからない作曲の話をしていた。どうして早紀や自分が入れないような話をここでするのか。久方は、結城がわざと早紀に意地悪をしているのではないかと疑っていた。
結城と保坂は、食事が終わるとすぐに2階に戻ってやかましくピアノを鳴らし始めた。久方が片付けている間、早紀はずっとノートに何か書いていた。上の2人の悪口でも書いているのだろうか。それでは文章の練習にはならないと思うが。
久方はさっきうっかり『雑念も書いたら』と言ってしまったことを後悔しながら部屋に戻り、
散歩に行こう。
と言った。早紀がノートを持っていこうとしたので、
雪がちらついてるからやめたほうがいいよ。
歩いてるときはノートを見ないで景色を見ようよ。
と言った。
でも、何かいいことを思いついても忘れちゃう気がするんですよ。
外では外のことに集中した方がいいよ。
たぶん帰ってきてからの方が上手く書けるから。
早紀はしぶしぶノートを置いてついてきた。
雪は降っていないが、空は暗い雲に覆われていた。空気はかなり冷えている。畑も道も雪に覆われて、歩くと雪の感触と音がする。曇り空さえも果てしなく感じるくらい、草原はいつだって広い。夏や秋にあった植物の気配は、今は静まっている。でも存在していないわけではない。
目覚めるのにふさわしい時期まで、
眠っているだけなんだ。
久方はなんとなく思ったことを言ったが、早紀は落ち着きなく建物の方をちらちらと見ていた。結城が気になるのか、ノートに何か書きたくてしょうがないのか。2人は畑を一回りして、すぐに戻ることにした。思ったよりも寒かったし、早紀が全く歩くことに集中出来ていないのがわかったからだ。
中に戻ると早紀はすぐノートに何か書こうとしたが、寒さで手がかじかんでしまって上手くいかないようだ。久方はポット君にコーヒーを頼んだ。早紀のことはしばらくほっとくことにして、自分は窓の外をぼんやり眺めていた。また雪が降ってきた。天井からは天気に合わない陽気な曲が聞こえてくる。ジャズなのかロックなのか判然としない。自分達で作った曲をてきとうに弾いているのかもしれない。
人生ってなんですかねえ。
早紀がノートを見つめながらつぶやいた。
ダメなんですよ。
目の前のことを描写する練習をしているのに、
気がついたら『宇宙ってなんだっけ?』みたいなことを考えてしまうんですよ。
もうとことん考えたらいいじゃないかと久方は思ったが、それを言うとまた大変なことになりそうなので、
人生がなにかは僕も知りたいけど、
たぶん、知ってる人はそんなにいないと思う。
と、あいまいな答え方をした。早紀は何かノートに書こうとしたが、シュネーがテーブルに乗ってきてじゃまをしたので、また猫と遊び始めた。
夕方、早紀が帰ってから保坂が、
所長、彼女ここに来るんでしょ?
新橋がいたら誤解されないすか?
と聞いてきた。
彼女じゃないんだ。古い知り合いだよ。だから大丈夫。
後ろで結城がプッと息をもらしたが、それは無視した。
保坂は『奈良崎ん家に行くんで』と言って帰っていった。
あいつ大丈夫かな。
最近家に帰ってないみたいなんだよね。
結城は保坂が心配なようだ。久方はまたしてもレティシアのことを思い出してゆううつになってきた。今さら何を言われた所で関係がない。そう思いたい。自分の所に学生がいるくらいでは、たぶん彼女はなんとも思わない。
あのさあ、クリスマスだけど、
新橋にも『来ないでくれ』って、
はっきり言った方がいいぞ。
絶対モメるぞ。クリスマスに女とモメると最悪だよ?
俺だいぶ前にあったんだけどさ、
2人の女が同時にケーキ持って家に──
結城が、災難なのか自慢なのかわからない昔の話を始めたが、久方はもちろん真面目に聞いていなかった。ただ、自分をめぐって誰がが争うなんてありえないと思っていた。会いに来てくれるだけでも奇跡に思えるのに。
そもそも、本当に来るのだろうか。
久方はそのことにまだ、確信が持てずにいた。




