2016.12.15 木曜日 ヨギナミの部屋
そっちはもう慣れた?
所長からのメールを、ヨギナミはしばらく眺めていた。これは所長なのか、それともおっさんが送ってきているのか。
なんでもやってもらえるから楽だけど落ち着かない。
ヨギナミは正直に答えた。
飯ちゃんと食ってるか?
と来たので、これはおっさんだろうと思った。
すごく豪華な食事出てるよ。びっくりするくらい。
太るかも。
お前は少し太ったほうがいいよ。細すぎる。
そんなことないと思うな。
隣では佐加が早紀に向かって、テイラー・スウィフトのコーデについて延々と語っていた。話すのに夢中でこちらに気づいていないようだ。
今日行けなかったけど、あさみの調子はどう?
私も学校だったから。
平岸ママとは仲良くしゃべってるみたいだよ。
今佐加が来てる。
そうか、じゃあな。
やりとりは終わった。佐加が、
どしたの?またホソマユからなんか来た?
と言った。ヨギナミはあいまいに笑っておいた。
佐加はここ数日、学校が終わった後必ずここに来ていた。ヨギナミがいる所には自分も入っていいと思っているらしい。今日も夕飯を食べていきそうだ。平岸ママはきっと佐加の分も用意しているだろう。手伝いに行った方がいいだろうか。でもあかねに見られると気まずい。
ジェイン・オースティンだ。
早紀が机の上にある『高慢と偏見』に気づいた。杉浦から借りたものだ。
この訳読みにくいから映画見たほうがいいと思うよ。
キーラ・ナイトレイが出てて、映像めっちゃきれいなやつ。見たことある?
ヨギナミは見たことがなかった。映画なんてめったに見ないと言ったら、
人生損してるよ。
と言われた。それから佐加と2人で女の子が好きそうなタイトルをいくつか語りだしたが、ヨギナミはあまり関心が持てなかった。
映画で人の人生を見る暇があったら、
自分の人生をなんとかしたい。
でも、どうしたらいいのか、
今の所わからない。
家と土地は平岸パパに買ってもらい、入院費用はそこから出すことになった。実質寄付してもらったようなものだった。いつか返さなきゃいけないような気がする。仕事しなくては。しかし今日はバイトも休みになり(改装工事のためだ)公務員試験の勉強もしたいが、友達2人に出ていけとは言いにくい。
予想どおり佐加は夕食まで居座り、メロンブッセをお土産に持って帰った。あかねは佐加とは話していたが、ヨギナミにはやはり話しかけなかった。
やっと一人になったので勉強を始めたら、誰かがドアをノックした。早紀だった。
橋本、やっぱり病院に来てんの?
いきなり聞かれた。今日は行ってないと思うと答えた。
お母さん、かなり悪いの?
ヨギナミはちょっと迷ってから、しばらく病院から出られないだろうと答えた。
ちょっと入ってっていい?
やめてくれないかなと思ったが、断れなかった。早紀は機嫌が悪そうで、不安そうにも見えた。ろくな話はしなさそうだと思った。
奈々子が、結城さんと話したいって言ってるんだよね。
早紀はベッドの端に座って、言った。
生きてた頃は嫌ってたくせに、大人になった結城さんを見たら見直しちゃったとか言ってさあ。私は嫌なんだけど。ヨギナミどう思う?
なにを話したいかによるかな。
そう?なんだったらいいの?
昔の同級生に会って、なつかしいなあ、みたいなの。
絶対そんな話にならないって!
早紀の口調はきつかった。ヨギナミは机の上の『高慢と偏見』をちらっと見て、『本読みたいから帰ってくれない?』と言えたらいいのにと思った。でも言えない。
結城さん、奈々子がからむと様子がおかしくなるもん。
ピアノやめられないの奈々子のせいだって言ってたし。
絶対なんか変な気起こすって。
つまりサキは話してほしくないんでしょ?
だったらそれでよくない?
だけどそれだと私が結城さんと話せない。向こうも私と話したがらないし。それってなんでだと思う?やっぱり奈々子のせいだと思う?
単にあなたに興味がないだけなのでは、とヨギナミは思ったが、それを言ってしまうと相手が爆発しそうなので、
いろいろあるんじゃない?
本人にしかわからないことが。
と答えた。早紀はしばらく黙ってから、
私、進路が決められないんだよね。
と言い出した。ヨギナミはうんざりしてきた。今日は自分の時間がなさそうだ。悪口を言う母がいなくなった(まだ生きてるけど)と思ったら今度は友達の愚痴だ。いったいどうなっているのだろう。
ヨギナミ、どうやって進路決めたの?
うちは貧乏だから就職しなくちゃいけないって決まってるだけだよ。大学行ける人が私の話を聞いても参考にならないんじゃない?
言ってから、少し嫌味だったかなと後悔した。
早紀は部屋を見回して、
ここ、本棚になにもないね。
とつぶやいた。実際は学校で使う教科書や参考書、ノート、公務員試験のテキストなどが入っていた。なにもないとはどういうことだ?
人柄がわかる本がない。
ヨギナミ、杉浦に借りた本しか読んでないの?
それ、よくないと思うよ。
本は自分に合わせて自分で選ぶもんじゃない?
今まで本を読む時間がなかったの。
買うお金もなかったし。
ヨギナミがそう言うと、早紀は気まずそうに『ごめん』と言って、出ていった。
やっと一人になれたと思ったら、今度は佐加が、
サキからさ〜、
『私って甘やかされてると思う?』
って相談来てんだけど、なんかあった?平岸家で。
とメールで聞いてきた。早紀はなにがしたいんだろう?ヨギナミは今起きたことを佐加に送った。
あ〜、それはなんか失礼なこと言っちゃったって、
反省してるんじゃね?
許してやりなよ。サキって本好きだからさ〜。
うちが服の話するようなもんじゃね?
『明日VOGUEを持っていく』と言われてやりとりは終わった。明日も佐加は来るらしい。しかもよくわからないファッション雑誌を持って。
ヨギナミは今のうちに勉強しておくことにした。一人の時間は貴重だ。恵まれた人に流されていては試験勉強ができない。でも、なぜ『勉強したいから一人にして』と言えないのだろう?母は機嫌が悪いと容赦なく人を遮断して、一人になっていたのに。
ヨギナミは考え事をしてしまって、勉強に集中できなかった。仕方ないので杉浦に借りた『高慢と偏見』を読んだ。姉妹が5人もいる家の話で、しかも女性は結婚しないと暮らしていけない時代だった。
自分で働くという選択肢があるだけ、自分のほうがましかもしれないと思った。主人公たちの会話が難しくて、理解するのに時間がかかった。近くに金持ちの男性が引っ越してきて、姉妹たちも母親も大喜びするのだが、ヨギナミにはその気持ちが全くわからなかった。仮に、自分の家の近くに金持ちの男子が引っ越してきても、自分に関係があるとはどうしても思えないだろう。
そういえば保坂はどうしているだろう。学校には来てるが最近あまり話さない。あのバカな男はまた出かけていて行方不明だという(これはスマコンが奈良崎と話しているのを聞いた)。今日は木曜日だからピアノを習いに行ったか。もしかしたら、早紀がずっとアパートにいたのも、保坂を避けるためかもしれない。
ヨギナミは本にも集中できなくなり、また公務員試験のテキストに戻った。散った集中力をなんとかかき集め、日付が変わる頃まで勉強した。ベッドに入ってから、早紀が、『人柄がわかる本がない』と言っていたのを思い出した。どういうことだろう?杉浦かおっさんに聞いてみようか。それとも自分で考えた方がいいのか。




