2016.12.7 水曜日 ヨギナミの家
母のからっぽのベッド。誰もいない家。
まるで、もう亡くなってしまったかのようだ。
実際には母はまだ病院のベッドで生きていて、他人や自分の悪口を言い続けているのだが。
ヨギナミはぼんやりするのをやめ、荷物をスーツケースに入れる作業に戻った。平岸アパートに引っ越すことになったからだ。家も土地も売れず、光熱費などももはや払えず、平岸パパは『土地は俺が買おうか』と提案してきた。もともと不動産で生計を立てている人だから、こういうことには慣れているのだろう。
うちに来なさい。
生活費も貯金もなくなりかけていることを打ち明けると、平岸ママは怖い顔で言った。
すぐに来なさい。必要なものを持って。
高谷くんの隣の部屋が空いてますから。
問答無用だった。反論が許される雰囲気ではなかった。
スーツケース(これも平岸ママに借りたものだ)に服を詰め、教科書類は学校用のバッグに全部押し込んだ。他に持っていくものは特にない。自分にはやるべきこと──家事と仕事と勉強──はあっても、趣味や、好きなことや、やりたいことはないし、そのための道具もない。ヨギナミは改めて、他の家の子と自分との違いを考えた。保坂は音楽とサバイバルゲームが趣味で、それにはかなりお金を使っている。スマコンが占いに使うタロットカードやパワーストーンのネックレスはかなり高価なものだと聞いている。新橋早紀は『本代が月1万では足りない』と言っているし、佐加美月はおこづかいで服を買ったり、自分で作るための材料を見つけたり、古いCDから音楽を取り込んで、安上がりといいながらも手間と費用をかけてセレブの曲をコレクションしている。クラスの他の子達にも、、何かしら趣味や好きなことがある。
なんにもない。
ヨギナミは小さくつぶやいた。それから、一度スーツケースに入れた服を全部出して、丁寧にたたみ直して戻した。それから、スギウラに借りた(というより、むりやり渡された)本を手に取った。
『宗教は人を救えるのか』
という題名だった。なんとなくめくった所にこう書いてあった。
「さまざまな生と死のストーリーは、私たちが死と直面したときに、驚くほど機能する」
スギウラはなんでこんな本を私に渡したんだろう?
ヨギナミはうっすらと不快感を覚えながらその字面を眺めた。まるで、母の死を予想しているかのようではないか。
外から草や氷を踏む音が近づいてきた。予想通りドアが開き、おっさんが現れた。時計を見ると夜7時だった。
何してる?
平岸家に行くことになったから片付けてるの。
平岸家?
平岸ママが『うちで暮らしなさい』って。
そうか。そりゃよかったな。
何がよかったって?
スーツケースに向かっていたヨギナミが、怖い顔で振り返った。おっさんは驚いたようだ。
いや、あの家にいれば食いもんには困らないだろ。
そういう問題じゃない。
ヨギナミは彼女にしては荒っぽくスーツケースを閉めた。しかし、本を入れ忘れたことに気づき、ふうっと息を吐きながら『宗教は人を救えるのか』を手に取った。
それも杉浦から借りたのか?
借りたんじゃなくて押し付けられた。ねえ、なんで杉浦はこの本を私に読ませたいんだと思う?
ヨギナミは本をおっさんに渡した。おっさんはそれを読み始め、床に座り込んでしばらく動かなかった。ヨギナミはその間に、ガスの元栓を閉め、水道の水抜きをし、ゴミ袋を家の外に出した。
いい本だと思うけどな。何が気に入らないんだ?
少し経ってから、おっさんは本をヨギナミに返し、尋ねた。
なんとなく説教くさいっていうか、なんていうか……。
じゃあ何の本だったらいいんだ。恋愛か?
ジェイン・オースティンか?
誰それ?
知らねえの?
それこそ杉浦に借りろよ。絶対持ってるぞ。
夏目漱石に影響を与えた作家だからな。
しかも女の。
そうなんだ。
杉浦。そうだ。好きなものはあった。でも向こうはどう思っているのだろう?
ヨギナミはスーツケースを開き直し、本を入れ、メモとペンを取り出して『ジェイン・オースティン』と書きこんでまたしまい、閉じた。
私は平岸家に行くけど、おっさんは好きなときにここに来ていいよ。鍵はあげるから。
水道止まっちゃってるからトイレは使えないけど。
ヨギナミが言うと、おっさんは少しだけ寂しそうな顔をした。
お前もあさみもいないのにここに来てどうすんだ?
一人になりたい時ってあるじゃん。
少し間があった。
あ、でもおっさんはいつも所長さんと一緒なんだっけ。
でも、どうするの?
クリスマスに来る女の人とよりが戻ったら。
俺は別にどうもしねえよ。ただ見守ってるだけだ。
おっさんは言いながら視線を泳がせた。
それに、たぶんよりは戻らねえよ。
なんでわかるの?
とんでもない女だからだよ。
別れた理由だって浮気だぞ?
そうなの?
そうだよ。それに──。
外から車が近づいてくる音がした。平岸パパが迎えに来たのだ。おっさんはドアを開けて、ヨギナミがスーツケースを運び出すのを手伝った。平岸パパは愛想よくヨギナミを迎え、スーツケースを車に積み、おっさんに軽くあいさつをして『一緒に乗ってく?』と聞いた。おっさんは無言で首を横に振った。車は走り出し、草原の夜空の下に消えていった。おっさんはしばらくそこに立って、空を眺めていた。
満天の星──。
あまりにも美しすぎてめまいがするほどだ。
きっと自分が生きていた頃から、いや、もっと、はるか前からそこにあったのだろう。自分が気づかなかっただけで。
気がつくと、久方創は星空の下に立っていた。
きれいだ。
久方は思わず微笑んだ。寒さも気にならなかった。
何が起きても、世界は変わらない。
星空はいつも、人にそう教えているかのようだ。




