2016.12.3 土曜日 研究所
夜中。
久方創は、誰かが言い争っている声で目が覚めた。隣、つまり結城の部屋だ。もう一人は早紀だ。久方は飛び起きて廊下に出て、結城の部屋のドアの前で耳をそばだてた。
いいから帰れよ!何時だと思ってんだ!?
待って。ちょっとだけでいいから話を聞いて。
私、知らなかったの。知らなかったんだから!
声は早紀だが口調は奈々子さんだった。乗っ取られて来てしまったのか。よりによってこんな夜中に、しかも結城の部屋に。
久方の足が震えた。立っていられないのではないかと思った。なんとかしなければならないのに体が動かない。
何が知らなかっただ?
どうでもいいんだよそんなことは。
新橋の体を勝手に使うな!お前は引っ込んでろ!
結城は情け容赦なく文句を言っている。
そう。私は忘れたほうがいい。だけど、
あんただってサキを惑わしてる。わかってるでしょ?
そんなことはない。
いいえ、あります。サキはあなたに夢中だもの。いつもあなたのことを考えているもの。もうちょっと態度を考えたら?アイドルばっかり追い回して──。
あーそうか、死んでからもお説教か!
やめて、もうやめて。
久方はドアの前で震えながら心の中で叫んでいた。でも声が出ない。体も動かない。今聞いたことは、心臓が跳ね上がるほど衝撃的だった。前から知っていたことのはずなのに。とにかく、早紀は本当に結城のことが好きなのだ。取りついてる人が言ってるんだからもう間違いない。
いつもなら、こういうダメージを受けた時には橋本が出てくるのだが。今日は出てくる気配がない。自分でなんとかしろということだ。
でも、どうやって?
私──。
奈々子がつぶやいた。
怖いの。自分が怖くてたまらないの。
このままサキに取りついていたら、本当にこの子をダメにしてしまう。
声は震えて、泣いているように聞こえた。
だったら取りついてこんなとこ来んなよ。
結城はうんざりしているようだった。
言ってることとやってることが違うだろ。
人には品行方正なお説教するくせに、自分は何してんだよ。未成年を夜中にこんなとこに連れてくるなよ。
私、どうしたらいいの?
知るかそんなこと。
冷たい。結城が冷たい。もう少し相手の気持ちを考えたらどうなんだと久方は思ったが、やはり声が出せない。
ドアが開いた。久方は慌てて退けようとして、反対側の壁にぶつかった。冬のロングコートを着た早紀が出てきたが、隣にうっすらと奈々子の姿が見えた。
創くん。
早紀が、いや、奈々子がつぶやいた。
ダメですよ。こんなことしてちゃ。
久方は震え声で言いながら顔を反らせた。
誰かと話したかったの。
奈々子は言った。
下に行きましょう。
久方はふらつきながら階段を降りた。奈々子もついてきた。1階の部屋に行くと、奈々子はテーブルの席についた。いつも早紀が座っている所に。久方は、コーヒーをいれてくると言っていったんキッチンに逃げ、大きく息を吸い込んだ。心臓がバクバク鳴っている。どうしていいかわからない。自分を落ち着かせるのに数分かかった。それから2人分のコーヒーを入れ、運んでいった。奈々子はじっとしたまま空中を見つめていた。
コーヒーを置き、向かいに座る。でも何を話せばいいのか。2人とも、しばらく無言でいた。
創くん。
先に口を開いたのは奈々子だった。
神戸に行ってから、幸せだった?
幸せ。
なんて自分には縁遠い言葉だろう。
久方は今までの自分の人生を数秒で振り返った結果、
向こうの両親はいい人ですよ。
単なる事実だけを口にした。
それって大事よね。親がいい人かどうかって。
奈々子はそう言った。
僕は、あなたには何も言うことはできないんです。僕を助けようとしてくれた。そのせいで、殺されてしまったんでしょう?
何度でも言うけど、創くんのせいじゃないからね。
奈々子が言った。
サキはあなたのことをすごく心配してる。橋本のせいで自分を失ってしまうんじゃないかって。
それは大丈夫です。心配しなくても。
何が大丈夫なんだ?という自己ツッコミが聞こえたが、今は無視することにした。
本当に?
たぶん。
私、どうしていいかわからないの。
奈々子が先程からの言葉を繰り返した。
たぶん橋本もわかってないんだと思う。
不思議なのは新道先生。
どうしてあんなに自制できるのかわからない。
あの人は人間離れした所があるから。僕、別世界であの人に会ったことがありますよ。
別世界?
死後の世界みたいな所。それでいつも追い返される。
本当?
奈々子は驚いているようだ。
ええ、本当です。
久方はうっすらと笑った。その後、また静けさが生まれた。久方は目の前にいる、早紀のように見えて実はそうではない人をじっと見つめた。それから、かつて自分のまわりにいた人達を思い出した。自分もこんな風に見えていたのだろうか。自分のようで自分でない。この人のようでこの人ではない。きっとみんな、どう接していいかわからなかっただろう。今の自分のように。
創くん。
奈々子が口を開いた。早紀の口を。
言いたいことがあったら、はっきり言っていいよ。
今、この状態で、恩人面する気もないし。
久方は少しの間のあと、
サキ君を傷つけたくない。
と言った。
それは不可能だと思う。残念だけど。
奈々子が言った。久方は目を見開いた。
なぜなら、サキは勝手に傷つくから。まわりにその気が全くなくても。そういうものだよ。人と人が接するってことは。
僕が言いたいのはそういうことじゃなくて、なんていうか、サキ君が僕みたいになったら困るということなんです。
僕みたいに?それはどういうこと?
僕みたいに──。
久方はそこで口ごもって、下を向いてしまった。
奈々子は、早紀の眼差しで久方をじっと見た後、
やっとわかった。由希さんがなぜ、あなたとサキがそっくりって言ったのか。
と言った。
自分のことを不幸だと思ってるでしょう?
サキもそうなの。だから似て見えるの。
久方は顔を上げた。奈々子はまだこちらをじっと見ていた。早紀の眼差し、あの何でも見抜いてストレートに言ってしまう子の目をしていた。似ているのはそっちではないのかと言いたくなった。
僕はともかく、なぜサキ君が不幸なんですか?
いじめで学校をやめたからですか?
それも大きいけどそれだけじゃないの。サキはその前から少し変わってた。
なんていうか、異様に人の気を引きたがるっていうか。
といっても、人にくっついていくんじゃなくて、一見静かなんだけど、『私は一人になりたくない』っていつも思ってる。だけどいつも一人でいる。そんな感じ。
奈々子は息を大きく吸ってこう続けた。
不安定なの。でも、だからって甘やかすのは良くないよ。創くん。あまりサキをかわいがらない方がいいと思うよ。サキも最近それに気づいた。だから少し距離を置こうとしてる。だから、ここにあまり来なくなっても理解してあげて。
わかりました。
私もう帰るね。サキを寝かさなきゃ。明日、高条くんと一緒に出かける予定なの。若いっていいわよね。
早紀が、いや、奈々子が立ち上がって部屋を出ていこうとした。
奈々子さん。
久方は呼び止めた。奈々子は立ち止まり、振り向いた。
結城のこと、好きでした?
まさか。
奈々子は笑い声をもらしながら言った。
ただのやな奴だったもん。
でも、今は普通にいい大人になったんだね。
私、ナギがああいうまともな大人になるなんて想像もしてなかった。
まとも?あれが?どこが!?
久方は思わず叫んだ。
確かに、普通の真面目な大人には程遠いけど。
奈々子は笑ってから、真顔になってこう言った。
創くん。あなたもサキも、『結城さん』も、すごくいい時代に生きてる。
私が生きていた頃はインターネットもなかったし、いろんなことに対して差別や偏見もすごかった。自分の考えは自分だけで頭の中に閉じ込めておくしかなかった。
でも今は違う。色んな人と意見交換してつながれる。
だから、自分を閉じないで。
サキはいろんなショックで閉じちゃったの。そこであなたに会ったの。
あなたも同じだったんじゃない?
もう外に出てもいい頃じゃない?
それだけ言うと、奈々子は走り去った。
久方はゆっくりと立ち上がり、少し迷った後、2階の結城の部屋に行った。結城はベッドに座ってぼんやりと視線を宙に浮かせていた。
奈々子さんと何を話してたの?
久方は尋ねた。
別になんでもない。
もう少し優しく話してあげてもよくない?
うるせえって。もう寝ろ。子供は寝る時間だ。
なんでそんなに話したくないの?
やっぱり好きだったから?
お前、奈々子の歌声、聴いたことないだろ。
結城が久方を強い目つきで真っ直ぐに見た。
聴いたとしても覚えてないだろ。
何言ったってわかんねえよ。
あの声を聴いたことがない奴には、
何を言っても無駄だ。
結城は手を振って出ていけと合図した。久方はドアを閉めて自分の部屋に戻った。しかし、今日は眠れそうにない。
自分のこと、不幸だと思ってるでしょう。
はい、そのとおりです。
久方は一人つぶやいた。実際、自分より不幸な人間がこの世にいるとは思えなかった。いつも不安定だ。いつも怯えて、落ち着かない。
サキもそうなの。だから似て見えるの。
奈々子はそう言った。早紀に何が起きたのか。久方はそれが知りたいと思ったが、いくら一人で考えてもわかるわけがない。結城の様子も変だ。
幽霊に取りつかれているのは、
僕達だけじゃないんだな。
久方は思った。
少なくとも結城は、確実に取りつかれている。
過去の亡霊に。




