2016.11.29 火曜日 研究所
久方創は久しぶりに『自分の』午前中を過ごしていた。なぜか橋本が出てくる気配がなく、結城も朝から出かけていていない。きっと機嫌が悪いのだろう。
昨日、早紀が帰ってから、久方と結城は言い合いをした。
どうしてあの曲を弾くんだよ!?
サキ君を傷つけたいの?
まず久方が文句を言った。結城は、
たまに弾きたくなる時があるんだから仕方ないだろ?
それにな、
新橋を傷つけてんのは俺じゃなくてお前だぞ?
ドイツの女の話ばっかしたんだろ?どうせ。
なんで僕の話でサキ君が傷つくのさ?
それがわかってないから傷つけるんだよ、お前が。
お互いに、早紀を傷つけたのはお前だと言い合って一歩も譲らなかった。そして今、朝になって久方は昨日の早紀をまた思い出した。あの曲を聴いて泣いていた。最初に泣いたのは奈々子さんだったかもしれない。でも、ソファーで激しく嗚咽していたのは早紀本人だ。トッカータ。結城と奈々子さんのつながりを示す曲。
やっぱりサキ君は結城が好きなんだな。
あんなに泣けるくらい。
久方はぼんやりとつぶやいた。心が重くなっていくのを感じた。
強い寒気が流れ込み、外はずっと雪が降っている。早紀は今日は来ないだろう。散歩に行くのも危ない。気晴らしで外に出たい時に限って天気がよくない。北海道の冬だ。これからは家の中で過ごす時間が増える。
いつのまにか猫達が暖房の前にいた。久方はキッチンにキャットフードを取りに行った。ポット君がコーヒーを持ってついてきた。かま猫がポット君に近づいてきた。いつもの追いかけっこが始まった。
シュネーは天井の隅をじっと見上げていた。そこにはいつのまにか、見事に左右対称の蜘蛛の巣が出来ていた。この冬をどうやって生き延びているのだろう?久方はその見事な形にしばし見とれた。そしてシュネーに、
あれは僕の友達だから、
できれば狙わないでほしいんだけどな。
と言った。シュネーは聞こえているのかいないのか、たまに耳をピクッと動かしながら、じっと蜘蛛の巣を見つめ続けていた。
蜘蛛を友達にするんじゃねえって。
悲しすぎるだろ。
声がした、驚いて振り返ると、部屋の真ん中に橋本が立っていた。機嫌の悪そうな顔で腕を組んで、久方をにらんでいた。
新道に出てくんなって言われたけどよ、
お前を見てると本当に腹が立つ。
なんで?
レティシアだろ?最近ウジウジ悩んでる原因は。
お前は一体どうしたいんだ?
どうって。
久方は口ごもった。
わからないんだな?それがよくねえんだよ。
相手が何を考えているかわからないから自分も何も出来ない、お前はいつもそればっかりだ。他人のことなんかいくら考えてもわかるわけねえんだよ。
お前どうしたいの?
大事なのはそこだろ?
僕にはどうにも出来ないでしょ?わかってるはず──。
わからねえ。なんで自分のことがそこまでわからねえのかが全然わからねえ。
お前本当に何したいの?ヨリを戻したいのか?
相手は浮気してたろ?現場見ただろ?
そうだ、
そのあとお前が怒鳴り散らして暴れたせいで──。
俺のせいにするんじゃねえよ。
悪いのは向こうだろ?
話をこじらせたのはお前じゃないか!
昔のことはいいんだよもう。今問題なのは12月にレティシアが来ることだろ?何考えてるかわかんねえ女が。
お前はどうしたいの?
久方は答えられなかった。
本当はわかっていた。
戻りたいよ。
でも無理なんだよ。
そう口から出そうになるのを必死で抑えていた。口にしたら全てが終わりそうな気がした。あまりにも望みが薄いから。
お前の駄目なところはそこだよ。いつも相手の気持にばっか合わそうとする。で、相手の気持ちなんかわかるわけがないからいつも『僕はどうしていいかわからない』なんだよな。
それ、まわりの人間には迷惑なんだぞ?
まわりだってな、お前が何考えてるかわからねえんだから、どうしようもなくなるだろうが。
僕がこうなったのは誰のせいだと思ってんの?
あーそうか。勝手に何でも俺のせいにしてろ。
それじゃ永遠に何も変わんねえよ。
そうだ、忘れてた。
明日千円めぐんでくれない?
は?
急に話が変わったので久方は止まった。
佐加があさみに花買おうって言ってただろ。
覚えてない?
そういえば。それは別にいいけど。
あんがとさん。じゃあな。
軽く手を上げて、橋本は消えた。
久方はしばらくその場から動けなかったが、かま猫が肩に乗ってきたので我に返った。
意味がわからないよ。
久方はかま猫を抱きながらソファーに座った。シュネーは蜘蛛の巣の真下あたりをうろついている。登れる棚がない場所なので、狙いたくても届かないが、諦めることもできないらしい。
まるで自分のようだ。
届かないものに手を出してしまった。
全てが悪あがきのようだ。レティシアを想うことも、ここで生きていることすらも。
お前はどうしたいんだ?
答えはやはり『わからない』だ。レティシアが何を考えているかもさっぱりわからないが、もっとわからないのは
自分のことなのだ。
なぜ自分はこうなのか。
自分がわからない人間が、どうやって他人を愛するのか。
どうやってわかりあえというのか。




