2016.11.28 1979年
廃ビルの最上階。橋本旭は一人でぼんやりと座りこみ、最近読んだ本の内容や、新道隆から聞いた馬鹿馬鹿しい話──根岸菜穂の兄貴に気に入られて、北大の仲間にまで紹介されたという話──を思い出していた。
新道は、誰にでも気に入られる。
いつもニコニコしている。
頭はかなり悪そうだが、いつも幸せそうだ。
自分とは真逆だ。
廃ビルにストーブはない。火を使うのはもちろん危ない。そろそろここに来るには耐えにくい気温になってきていた。それでも、橋本はここに来てしまう。世界から隔絶した、自分だけの居場所だった──あいつらに見つかるまでは。
下からゆっくりとした軽めの足音が聞こえてきた。橋本は顔をしかめた。誰が近づいてきているかわかったからだ。それは今一番会いたくない女だった。
「あんた、こんな寒いときに何してるの?」
初島緑が入口から顔を出した。
「うっせえな。寒いなら帰れよ」
「やだ。帰んない」
初島は意地悪く笑いながら、橋本の隣に座り、少し震えた。
「風邪ひく前に帰れよ」
橋本は相手の顔を見ずにつぶやいた。
「大丈夫よ。マザーアースは風邪なんかひかないから」
「またその話か」
「私は特別なのよ。あんたも知ってるでしょ?」
「知らねえって」
「いや、知ってるのよ」
初島が橋本の袖を掴んで引っ張った。
「いいことを教えてあげるわ」
「聞きたくねえな」
「でも聞くのよ」
初島は、橋本の腕をがっちりつかんでいた。
「新道は、私が創ったのよ」
質の悪いイタズラを白状するような言い方だった。橋本は意味がわからず、初島を見た。初島はやや歪んだ笑い方をしていた。たぶん、楽しくて笑っているのではないなと思った。
「何ヶ月か前、大きな通り沿いを歩いていた時」
初島は一度身を起こして、床に座り直した。
「強い気配を感じたのよ。何か大きなもののね。そうね、なんていうのかしら。『大いなる良心』みたいなもの?私の大っ嫌いな常識の塊みたいなやつよ。そいつが、『もうこんなことはやめなさい』って言ったのよ」
「悪いことばっかしてるからだろ」
橋本が投げやりに言った。真面目に話を聞く気は全くなかった。
「悪いことなんかしてないわよ」
「いっつも人をそそのかしてるだろ?」
「女に言われたくらいで誘惑される男が悪いのよ。本当に良心のある男なら、女の誘いになんか乗らないでしょうが。それよりも、その忌々しい良心が私の邪魔をするから、私はこう言ったのよ?『あんただって、人間の肉体を持ったら悪いことをしたくなるわよ。試してみなさいよ』って。それでいいことを思いついたから、マザーアースの力で実行に移したわ」
「何だよ」
「良心を人間の身に落としてやったのよ!アハハハハ!」
初島は愉快そうに笑い声をたててから、橋本の顔をのぞきこみ、
「それが、新道なのよ」
と言った。目つきが獣のようだった。
「誰がそんな話信じるよ?」
橋本はそう言ってから、落ち着きなくあたりを見回した。ここに新道がいなくてよかったと思った。なぜかわからないがそう思った。
「だから親を探したってムダなのよ!出てくるわけないじゃない。そもそもいないんだもの!何か面白いことをしてくれるかと思ったら、さっそくナホに夢中になっちゃって、私のことなんか忘れてる」
初島はまた座り直して天井を見上げた。
「あ〜!!つまんない!良心なんてその程度のものだったのよ。私の力を止められるものはこの世にいない。私は万能。あぁ、つまんない!」
「くだらない話してないで帰ってくれや」
橋本はうんざりしていた。初島がウソ話をするのはいつものことだ。信用してはいけない。でも今回の話は何か引っかかる。新道は確かに純粋すぎて、人間離れしている奴だ。もしかしたら──いや、ありえない。
「あんたと新道が仲良くなるなんて誤算だったわ」
初島は立ち上がってスカートのほこりを払った。
「別に仲良くはしてねえけど」
「あら?そう?おじさんは『旭が友達連れてきたの初めて』って騒いでたけど?」
「帰れよ!」
橋本が怒鳴った。初島は軽く笑い声をあげながら出ていった。階段を下る軽いステップが響く。
橋本はその後もしばらくそこにいた。外が暗くなって空気が冷え切るまで、彼はそこにいた。自分が今、何を聞いてしまったのか考えながら。




