表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年11月

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

610/1131

2016.11.27 日曜日 病院→ヨギナミの家


 俺は絶対やめた方がいいと思うんだけどな、あの女。


 病院。

 橋本があさみに向かって話していたのは、久方創とその『ドイツの元カノ』のことだった。


 見る目、ないのよ。


 あさみがボソッと言った。彼女は久方のことがあまり好きではないらしく、彼女の話も嫌そうな顔で聞いていた。ヨギナミはとなりで本を読みながら2人の様子をうかがっていた。宮沢賢治はもう杉浦に返し、今は伊藤ちゃんに勧められた、ハイディ・グラント・ハルバーソンの『やってのける』を読んでいた。たぶん公務員試験への心構えとして勧めてくれたのだろうが、なんだかもっとクリエイティブでお金持ちな人向けの本のようにも感じた。でも一応読んだ。自制心の鍛え方が書いてあったが、ヨギナミが知りたいのは、むしろ逆のことだった。どうしたら自分を()()()()出せるのか、それがわからないのだ。


 俺、新橋も苦手なんだけど、

 あの女よりはずっとマシな気がするな。


 おっさんがそう言ったのが聞こえたので、ヨギナミは本から顔を上げた。


 あれで?


 あさみが片目を歪ませて意地悪な笑い方をした。


 サキ、最近元気ないんだって。

 その人のこと気にしてるのかな。


 ヨギナミは言ってみた。

 母が嫌そうな顔でこちらを見た。


 そうかもしれねえな。

 あの2人を見てると本ッ当にイライラするからな。

 お前ら早く気づけお互いにってな!


 おっさんが笑い声をあげた。そうだ、こないだ研究所に遊びに行ったクラスの人はみんな『久方さんは新橋のこと好きだって』あるいは『新橋さんは久方さんのこと好きなんでしょ?』と言っていた。なぜかみんなヨギナミにそれを聞いてくる。本人には聞けないと言う。

 昼過ぎにスギママがやってきた。ヨギナミはバスで帰ろうと思っていたが、結城に『乗っていきなよ』と言われて、おっさんと同じ車に乗った。


 ヨギナミ、久しぶりだね。


 突然、久方創が戻ってきた。


 所長さん?戻ったんだ。


 本当に久しぶりだった。


 話はだいたい、僕にも聞こえてたよ。


 久方はうつむいていた。


 僕とサキ君はそういうんじゃないから。


 久方がつぶやくと、前の運転席から『プッ』という息を吹く音がした。


 ほんとにそういうんじゃないんだよ。何ていうかな。


 久方はしばらく無言だったが、


 エミリー・ディキンソンと蜘蛛だよ。


 と言った。もちろんヨギナミには、何のことだかわからなかった。


 あの建物にはよく蜘蛛が巣を作るんだ。僕はそれを見てとてもきれいだと思うけど、そこの結城は怖がって、悲鳴をあげて逃げていく。


 当たり前だろ!?蜘蛛だぞ?


 前の席から悲鳴が聞こえた。


 きれいなものをきれいだと思う感性がない。草原を見てもなんとも思わない。

 だけどね、サキ君に、蜘蛛や草を詩で讃えていた人がいたねって言ったら、

『ああ、エミリー・ディキンソンですね』

 ってすぐ返ってくる。


 再び、前の席からバカにしたような笑い声がした。


 そんなの知ってる奴のほうがおかしいって。

 あ、そうだ、話長くなりそうだから、

 メシ食いに行く?おごるよ?


 僕とサキ君にだけわかって、他の人にはわからないものがあるんだよ。

 それだけだよ。みんな誤解してるんだよ。


 久方はそれっきり黙ってしまった。気まずい空気が車内を流れた。それを察知した結城は、飲食店はやめて、弁当をテイクアウトしてヨギナミに渡した。

 車は家の近くまで行って止まった。


 本当は橋本と話したかった?


 と久方はヨギナミに尋ねた。ヨギナミは『いいえ』と嘘を答えて、お礼を言ってから家に戻った。

 やっぱり、おっさんと所長は全然違う人なんだな。

 今日の態度の変わりようから、ヨギナミは改めて実感した。おっさんの時は堂々としているのに、所長になるといつも自身がなさそうに目をそらすのだ。


 家の中はしんとしていた。当たり前だが誰もいない。テレビをつけてお湯を沸かし、もらったお弁当を食べた。

 母は若い頃、友達をここに呼んでいたらしい。ヨギナミはそうしようと思ったことは一度もない。ここは母の家であって、自分の家ではなかったからだ。佐加は呼ばなくても勝手に来た。グループの人はみんなそうだ。

 ヨギナミは携帯を取り出し、佐加に、


 今帰ってきた。帰りの車でおっさんが所長に戻ったよ。

 

 とメールしてみた。

 

 うちも切り替わる瞬間見たことある。


 と返信が来た。藤木の妹が熱を出していて、


 うつるから来るなって言われた。

 つまんね。


 と言ってきた。

 藤木は真面目だ。真面目に佐加を心配していて、佐加も文句を言いながらもデレてついていく。


 僕とサキ君にしかわからないことがある。


 所長はそう言った。

 それはもう恋ではないのだろうか?違うのだろうか?

 恋という言葉で杉浦を思い出し、ヨギナミは一人で顔を赤らめた。先日、杉浦に、宮沢賢治の本のあの赤線の意味を聞いた。杉浦はこう言った。


 自分の人生のようだと思ってね。


 ヨギナミは驚いた。あんな諦めを促すような文に、この、いつも好きなことをしていて幸せそうな杉浦が自分を重ねるなんて。ヨギナミは自分のほうがこの文のようだと言った。杉浦はただ、


 仏教の本を読むといいよ。


 とだけ言った。

 今度何冊か学校に持っていくと言っていた。


 またホソマユの独演会が始まって、

 ホンナラ組が寝ちゃうんじゃね?

 うちも寝る。


 佐加はそう言ってきた。ヨギナミはそれを見て少しだけ笑った。それから、おっさんと母と所長と元カノとサキのことを心配しつつ、公務員試験の勉強をした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ