2016.11.20 日曜日 ヨギナミ 病院
おっさんが来ないので、母は機嫌が悪い。
ヨギナミが学校のことを話してもむっつりとしてあいづちも打たず、家のことや貯金のことを相談しようとするとそっぽを向いて無視する。
入院の費用で、貯金はすでに崩れ始めていた。半年ともたないだろう。平岸ママは『いざとなったら自分が』と言ってくれたが、さすがにそれは申し訳なさすぎる。しかし、他に打つ手がない。
ヨギナミは病室で、母と、手元の本と、時計をかわるがわる見ていた。昼頃にスギママが交代してくれることになっている。自分も仕事ややりたいことがあるだろうに、一人になりたくない母のために来てくれるのだ。ヨギナミは申し訳なさでいっぱいだった。いくら親友でも普通ここまではしないだろう。2人とも優しすぎるし、母は甘えすぎなのだ。しかしそれを指摘したら、もっと機嫌が悪くなるだろう。
母に何を言っても反応しなくなったので、ヨギナミは、杉浦に借りた宮沢賢治全集を読んでいた。読書はだいぶ進んで、300ページを過ぎ、『二十六夜』に入った。フクロウが、ありがたいけどよくわからないお経の話をしていた。次の日に、フクロウの子供が人間に捕まった。
「このようなひどい目におうて、何悪いことしたむくいじゃと、恨むようなことがあってはならぬ。この世の罪も数知れず、さきの世の罪も数かぎりない事じゃほどに、この災難もあるのじゃと、よくあきらめて、あんまりひどく嘆くでない。あんまり泣けば心も沈み、からだもとかく損ねるじゃ……」
この部分に赤ペンで線が引かれていた。ヨギナミはその部分を繰り返し読み、赤ペンの、定規で引いたようなまっすぐな線を見た。
これは杉浦が引いた線なのだろうか?
自分へのメッセージ?それともここが気に入っただけ?
なんでこの文が気に入る?
ヨギナミはこの文の前後を何度もめくって内容を確認したが、捕まったフクロウの子供に大人のフクロウが『諦めて大人しくしていなさい。かわいそうに』と言っているだけだった。何だか救いのなさそうな話だと思っていたら、やっぱりフクロウの子供は、人間に足を折られて捨てられていた。そして、やっぱり息をひきとった。菩薩が迎えに来たような描写はあったけど、悲しすぎる話だった。
後で杉浦にこの話と線は何なのか聞いてみよう。たぶん、仏教と文学の話を喜んで長々としてくれるだろう。
あんた。
母が不意に、舌足らずの声で言った。
ヨギナミは顔を上げた。
おとこの、ことを、かんがえ、て、る、でしょう。
母が嫌らしい笑い方をした。ヨギナミは顔を赤らめた。なぜわかったのだろう?母はそれ以上言葉を発さなかったが、バカにしているのは目つきでわかった。
あんた、いつも真面目ぶっているけど、
私と大して変わらないじゃないの。
母はそう言いたいのだ。
こんにちはァ〜!
タイミングよく、スギママが入ってきた。手に白い箱を持って。
洋子がシフォンケーキ作ってくれたわよぉ。
ふわっふわ!超ふわっふわ!!
あのう、せっかくですけど、
私バイトがあるので早く帰らないと。
ヨギナミは言った。一刻も早く母から逃げたかった。
あ、そ〜なの?残念!
じゃ〜私とあさみで食べちゃうね〜!
何かを察したのか、スギママはそう言ってくれた。本当は、ここを早く出たところでバスの時間を待たなければいけないし、スギママもそのことは知っているはずなのだが。
ヨギナミはスギママに礼を言ってから、小走りで病院を出て、バス乗り場でまた全集の赤い線のページを開いた。
この線を引いた人に会いたい。
と思った。母の言うとおりだ。自分は杉浦のことを考えている。母の看病をしなければならない時に。
バスに乗り、家に帰り、すぐにレストランに向かった。店は混んでいた。考える暇もなく動き回り、帰る時間になった。シェフが『これ持ってけ』と残り物の詰め合わせをくれた。ハンバーグがごろんと一個入っていた。他にも料理がたくさん、どう見ても余ったものではなかった。わざわざ用意してくれたのだ。
夕食は一人で食べた。テレビが今週のニュースをまとめて流している。全て別な世界の出来事のように感じる。後片付けをして、テレビを消した。家が無音になった。
誰もいない。
何の音も、誰の声も聞こえない。
それは、今まで感じたことのない静けさ、前にはなかった怖さだった。生まれて初めて、一人でいるのが怖いと思った。今、何か起きても、誰も気づかないだろう。
勉強しよう。
ヨギナミはキッチンに行って、公務員試験のテキストを開いた。今出来ることは勉強だけ。やるべきことはそれだけだ。どうしても受かりたい。安定した収入のある仕事につきたい。でも、その前に、高校を卒業できるだろうか?お金はもうなくなっているし、あと一年分学費がいるし、それに母はどうなるのか──。
次々と襲いかかってくる不安を無視するために、ヨギナミは公務員試験のテキストをやたらにめくった。見てはいたけれど、読めてはいなかった。自分がパニックを起こしかけていることに、すぐに気づいた。
ヨギナミはベッドがある部屋に走り、携帯をつかんだ。
どしたの?なんかあった?
連絡したのは佐加だった。急に落ち着かなくなった、とヨギナミは説明した。本当はそれどころではなかったのだが。
ヨギナミ疲れてんじゃね?
病院行ってバイトしてさ〜、
明日は試験だし。
試験。
忘れていた。明日から後期中間試験だ!
うち勉強する気しなくて、
今日も平岸家行って遊んじゃったんだよね〜。
あかねもサキも全然やる気ないよ。
お菓子ばっか食ってた!
世の中の普通の女の子達は、日曜をそんな風にのんびり過ごすのだ。
ヨギナミは落ち着く代わりに、心が冷めていくのを感じた。
世の中は理不尽だ。そういえば、さっき読んだ本にそんなことが書いてなかったっけ?フクロウの説教の中に。『もう何もかも辛いことばかりじゃ』とか。フクロウ達はみんな諦めたのだろうか、あの不幸を。それが人生、いや、フクロウの一生だと。
これから勉強すると言って、ヨギナミが通話を終わろうとすると、
うちもう諦めて寝る。おやすみ!
と言われて切られた。
佐加は気楽だ。試験前なのに。
ヨギナミは力ない歩き方でキッチンに戻り、テキストをしまい、数学の問題集を取り出した。数学は得意だが、今回はダメかもしれないと思った。さっきの不安がなくなった代わりに、何かモヤモヤしたものが残った。
ヨギナミは杉浦に、
『二十六夜』の赤線、なんで引いたの?
とメールした。あれって私のこと?とも聞きたかったが、攻撃的に響きそうだったので、やめた。返事はない。杉浦は朝型だからもう寝ているかもしれない。
時計は10時を過ぎていた。




