2016.11.12 土曜日 研究所
サキ君、来ないなあ。
久方創はソファーに寝そべりながらつぶやいた。時刻は夕方3時半。今日は土曜日。今までなら早紀は昼には来ていたはずなのだが、何か気になることが他にあるのか、連絡もここ数日、ない。
自分が平岸家に行った方がいいのだろうかと考えた。しかし気が進まない。もしかしたら、他にやることがあって来ないのかもしれない。相手は学生だ。勉強だってある。
午前中、久方は、橋本が自分の体を使って病院にいるのを見ていた。あさみはいつもより表情豊かで、何も言わないが、話を面白がっていた。佐加が母親と一緒に来てふざけた会話をしていたせいもあるだろう。佐加の母親は奇妙なほど髪がクルクルとあちこちで巻いていて、話し方も性格も娘と同じだった。ヨギナミもいたが、病室の隅で宮沢賢治の小さな全集(杉浦に借りたと聞いて、橋本は少し嫌がっていた)を読んでいた。みんなが楽しそうに話していても、入ってこない。久方はそれが気になった。
佐加の母親は橋本に車に乗っていけと言い、半ば強引に浜町の『うおいち』に連れていき、みんなでちゃんとした寿司を食べていた。その間もこの母娘は調子良くしゃべり続けていた。芸人の漫才のような会話だった。
こういう親子もいるんだなあ。
と久方はぼんやり思った。自分にとって親というのは、常に少々怖い存在で、佐加のようなぞんざいな対応は絶対に出来ない相手だったから。いや、本当は、神戸の両親はいつだって対等に接してくれていた。それはわかっていた。久方の方がどうしてもそうすることが出来なかっただけなのだ。
佐加の母親は研究所近くまで橋本を送り、そこで体は久方に返された。
先に帰っていた結城は、2時頃まではテレビを見ていたのだが、そのうちまた2階に上がって、ラヴェルのあのトッカータを弾き始めた。
久方は焦った。
あいつ。サキ君が来たらどうするんだ!?
しかしピアノは3時前におさまり、早紀も姿を現さない。
みんな何を考えているんだろう?
久方には全くわからなかった。
散歩ついでに平岸家に行ってみようと思い、外に出た。午前中降った雨は止み、気温も高めだ。歩くには良い天候だった。道は悪いけれど。林を抜け、道に沿って歩く。草木は眠りにつこうとしている。自分もできれば眠ったまま起きたくない。なぜ人間は好き好んで冬まで活動したがるのか。そうしないと寒さの中では生存出来なかったからだ。昔は。今はだいたい生活費のために、みんな、危険な吹雪の中でも仕事に行く。今の人のほうが、寒さをなめて、危ない行動をしているのではないか──。
と考えた時、平岸家が見えてきた。ちょうど、平岸の旦那が車から降りてくる所だった。
やあ、どうも。
平岸の旦那は、久方を見つけると手を上げて挨拶した。妻は与儀さんのお見舞いに行っていると言いながら、久方を家の中に案内した。
早紀はテレビの間にいた。久方が声をかけるとちらっと振り向いたが、すぐテレビに目を戻した。札幌のスイーツ店の特集のようだ。気になるのだろうか。
久方はコタツに座って様子を見ていた。すると、
恋愛って何ですかねぇ。
早紀がいきなり言葉を発した。テレビを見たまま。
カントクとリオの話が、真逆なんですよ。カントクはいわゆる少女マンガは全部『性欲』であって恋愛ではないって言うし、リオは『恋愛と性欲はセット』みたいなことを言うんですよね。
つまり、リオは私が恋をしていると言うし、
カントクはただの性欲って言うんですよ。
久方は何をどう言っていいかわからなかった。
すみません。
スイーツを見ながら話すことじゃないですよね。
早紀が久方の方を向いてぎこちなく笑った。平岸の旦那が、紅茶とクッキーを持ってきた。それから、
裁判は停止中だよ。
あさみさんが動けないから。
と久方に言った。久方もぎこちなく笑った。それよりも、早紀が頭の中で何を考えているのかかすごく気になった。もし早紀が結城と、あるいは他の男とそんなことをしていたら、自分は間違いなくショックで死ぬと思った。いや、今、既に死にそうだった。紅茶を飲もうとしたら、カップを持つ手が震えた。
まだ調子よくないんですか?
やっぱり橋本のせいですか?
早紀が言った。久方は『違うよ』と答えるのが精一杯だった。早紀は、明日第3グループで出かける予定だが、高谷と高条が一緒だと楽しくないので嫌だとか、学校では中間試験が近づいているとか、相変わらず奈々子がムカつくとか、とりとめのない話をしていた。
夕方になって、
今日はレストランに行くけど、一緒に来るかい?
と平岸の旦那に誘われたが、丁寧に断って帰ってきた。研究所では、結城と、なぜか保坂が一緒に、キッチンで怪しげなご飯ものを作っていた。
今日泊めるから。
久方がキッチンに入ると同時に、結城が保坂を手で示して言った。家でまた何かあったのだろう。3人で『極上チャーハン』なるものを食べたが、久方には普通のチャーハンと何が違うのかわからなかった。保坂は『うまみが違うでしょ!!』と言い張っていた。久方は早紀が言ったことをずっと気にしていて、味の違いに気づけなかった。
2人が2階に行って無遠慮にピアノをかき鳴らし始めてからも、久方はずっと一人で悩んでいた。
早紀だって人間の女だ。
なのに、どうしても、『性欲』という言葉が合わない。
そんなものと結びつけて考えたくない。
でも、それはなぜだろう?




