2016.11.10 1979年
根岸浩は、妹の菜穂のことを常に心配していた。
控えめに言っても、菜穂は世界一かわいい女の子だった。しかし、少々頭が鈍い人のような話し方をすることと(けっこう難しい本を平気で読むので、知的障害ではないはずなのだが)いくつになっても子供のような行動を繰り返すことから、両親には嫌われていた。傍目から見てもそれはないだろうと思うくらい、両親は菜穂に冷たくあたっていた。さっきも、せっかく機嫌よくピアノでブルグミュラーを弾いていたのに、母は突如『うるさい!』と怒鳴り出し、『高校生にもなってそんな幼稚園児でも弾ける曲しか出来ないの!?』と菜穂を罵ったのだった。『お金の無駄だから』とピアノ教室をやめさせたのは自分のくせにだ。
妹は父や母を怖がるようになり、高校に入ると、帰りにどこかに寄り道しているのか、遅くまで家に帰ってこないことがよくあった。浩はそんな妹を心配していた。なので、『友達に会ってほしい』と言われた時にはよいことだと思った。
その友達が、男子でさえなければ。
「あのね、シンちゃんはとってもいい人なんだけど、お父さんとお母さんはたぶん好きにならないタイプの人だと思うの」
「ご両親は?」
「いないの。一人で古いアパートに住んでる」
浩はあせった。一人暮らしをしている男子と仲良くしているのか。
「まさかアパートに遊びに行ったりしてないだろうな」
「ううん。遊んでないよ。勉強を教えに行ってるの」
菜穂はけろっと答え、浩はさらに焦って顔色を変えた。
「だってシンちゃん、英語が全然出来ないんだもん。よくうちの高校に編入できたなってみんな言ってるよ?きっとみどりちゃんのお父さんのコネだと思うの。校長と知り合いって言ってたもん。脅したんじゃないかってみどりちゃんが言って──」
「おいおいおいおい」
浩は弱り切って声を上げた。
「みどりちゃんのお父さんって精神科の?患者か?そんな怪しい人と付き合っちゃ駄目じゃないか」
「シンちゃんはいい人だもん。それにね」
菜穂はかわいらしく頬を赤らめて、
「ナホ、思うんだけどね」
花のように笑った。
「シンちゃんはたぶん、ナホの運命の人だと思うの!」
──心配だ──。
次の日、浩は、みやげ代わりのかっぱえびせんを持って、菜穂と一緒にアパートに向かっていた。浩はかっぱえびせんが大好きで、『かっぱえびせんが好きな人には悪い奴はいない』と友達にも言うほどであった。話題作りのために持ってきたのだ。
変な男だったら殴り殺してやろう。
そう思いながら、木造のボロアパートの前に立った。
「シンちゃ〜ん」
妹がかわいらしい声で奴を呼んだ。
中でバタンドタンと慌てている音が聞こえた後、ドアが開いた。出てきた男があまりにも細長くて、ドアの上に頭をぶつけそうになっていたので、浩は驚いて一歩後ろに下がった。背が高いとは聞いていたが、ここまでひょろ長いとは思っていなかった。まるで電柱だ。
「はっ、はじめましてっ」
電柱がどもりながら頭を下げた。浩もつられて礼をした。
「ナホの兄の根岸浩です。妹がお世話になっています」
浩は礼儀正しく言った。殴るのはもっと後でいいと思った。それに、顔の位置が高すぎて狙いにくいなとも思っていた。
「し、新道隆ですっ!どうぞ!」
中に入ると、古本の匂いがした。部屋中に古い本が置いてあった。隅にはきちんと畳まれた布団。反対側には、ゴミ捨て場から拾ってきたかのような傷だらけの座卓。物はきちんとあるべき所に置かれていて、貧乏ながらもきちんと暮らしているようではあった。散らばっている本を除けば。本の題名はみな古典で、夏目漱石や、トルストイや、ドストエフスキーなどだった。マンガや成年向けの雑誌の類いは見当たらない。壁にもポスターどころかカレンダーすら貼っていない。どうやって日付を把握しているのだろう。
「真面目な本がたくさんあるね」
浩は見たまんまのことを口にした。
「友達が古本屋で、くれるんです。あれも読めこれも読めって。でもみんな難しくて、なかなか追いつかないんですよ」
新道は屈託なく笑った。真面目そうだ。今時珍しい。浩は思った。でもまだわからない。慌てて片付けただけかもしれない。
浩は座卓の前に座り、かっぱえびせんを置いた。新道はお茶をいれるために湯を沸かし、菜穂は『湯呑が2つしかないねえ』と言った。この様子だと、もう何度もここに来ているようだ。危ない。後で注意しなくては。善良そうに見えても男はケダモノだ。2人きりでいたら何をされるかわからない。しかし、浩は悩んでいた。この純真な幼子のような妹に、どうやって性犯罪の危険さを教えたらいいのだろう?出来れば一生知ってほしくないのだが。
浩はえびせんの袋を開けて、一つつまんだ。今日もうまい。それを見た菜穂が飛びついてきて、えびせんをつまんで口に入れ、また台所の新道の隣に戻った。
「仲がいいんですねえ。お兄さんとナホちゃん」
新道が浩の方を向いて笑い、緑茶が入った湯呑を運んできた。新道が座ると、菜穂は迷わずその隣に座り、兄に向かって微笑んだ。『もちろんお兄ちゃんは私を理解してくれるよね?』という笑い方だ。浩は目をそむけたくなってきた。いっつも自分についてきて泣いたり笑ったりしていた妹が、今、別な男の隣で微笑んでいる。しかもこの2人はお似合いだ。まだろくに話してもいないのに、浩には菜穂が『運命』と言った意味がわかりかけてきた。この2人、発している雰囲気が全く同じなのだ。
「事故で記憶がなくなって、まだ戻らないんだってね」
浩は沈んだ声で尋ねた。
「はい」
新道は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐ笑顔に戻った。
「でも、まわりの人がみんな親切にしてくれるので、なんとか生きてはいます」
「家族も見つかってない」
「はい」
「そうか」
確かに、相手の家柄や財産を気にする両親には、この男は気に入らないだろうと浩は思った。しかし、態度はとても良い。
それからしばらく学校の話や、本の話をふってみたが、新道の受け答えはことごとく真面目だった。いい人ぶっている様子もない。素だ。こいつは根っからこうなのだ。それが浩にもわかってきた。
「初島さん家のみどりちゃんとは知り合い?」
「同じクラスで、外でもたまに会いますけど」
「そうか」
浩は急に、もう一つの心配事を思い出した。
「あの子、時々、危ないことしない?人をそそのかすようなことを」
「ああ」
新道はすぐ、浩が何を言いたいかわかったようだ。
「そうなんです。すぐ『イタズラしましょうよ』とか『からかってやりましょうよ』とか言いますよね、初島。俺もいつも困ってるんですけど」
「やっぱりそうなのか」
浩が言った。
「実はね、昔からあの子はそうなんだよ。俺と菜穂は小さい時から知ってるけど、とにかく悪いことばかり人に勧めて来るんだ。万引きとかスカートめくりとかね。俺は引っかからなかったけど、近所の子供がそれのせいで犯罪をやって何人か捕まってるよ」
「本当ですか?」
新道は驚いたようだ。
「お兄ちゃん、みどりちゃんは悪い子じゃないのよ。ただ昔から少し──」
「お前にとってはいい友達なんだろうな」
浩が菜穂に笑いかけた。
「でも他の人にはそうじゃない。新道くん。あの初島って女には気をつけた方がいいよ」
「わかりました」
浩はお茶をすすり、またえびせんをつまんだ。いくつ食べてもうまい。新道にも勧めた。新道はそ〜っとえびせんを取り、口に入れた。
「うまいですね。初めて食べた」
「だろ?」
浩は笑った。こいつはいい奴だ。
「お兄さん、大学では何をやってるんですか?」
「経済」
「でも、本当は文学の方が好きだよね?」
菜穂が言った。
「それを言うな」
浩が笑った。文学のことはとっくの昔に諦めていた。両親が反対したからだ。
「じゃあ、本も相当読みますか」
「読むよ。毎日読んでる」
「じゃあ、一緒に橋本古書店に行きませんか?」
新道が言った。
「あの店を知ってるのか。俺もよく行くよ」
浩が言った。
「そうなの?」
菜穂が驚いた。
「なんで今まで教えてくれなかったの?」
「いや、それは──」
赤毛の変な奴が店をうろついていたからだ、とは、浩は言えなかった。今はもう、その赤毛が妹の同級生で、髪は染めているのではなく生まれつきだと知っているからだ。前見た時は、頭のおかしい不良に違いないと思っていた。
「たぶんまだ営業時間中ですよ。行ってみましょう」
新道が窓の外を見ながら言った。そういえば、この部屋には時計もない。浩は不思議に思った。どうやって時間を知るのだろうと。今度、どこかで安い時計を見つけて、菜穂にでも持たせよう。
最初持っていた新道への不信感は、すっかりなくなっていた。
「なんで俺ん家に連れてくるんだよ!?」
数十分後、店の隅で、橋本が新道につかみかかっていた。
「だ、だって、本が好きだって言ってたし、ここにもよく来てるって!」
新道は慌てて言い訳した。浩と菜穂は、2人仲良く本棚をあさって何か話していた。
「お前、少しは考えろよな」
「何を?」
「俺と知り合いだって知られたら、お前まで変な奴だと思われるんだぞ?」
「なんで?」
「なんでじゃねえよ」
橋本は呆れた。
「お前は世の中を知らなさすぎるんだよ。振られても知らねえぞ?」
「おい新道、今日も飯食ってくか?」
店主が尋ねた。新道の目がわかりやすく輝いた。
「新道くんと仲がよいんですね」
浩が店主に尋ねた。
「ほとんどうちの子みてえなもんだな」
店主は笑いながら言った。
「あんたも、そこ子のお兄さんなら、まけてやるよ。一冊だけ半額にしてやっから、何でも好きなの選べや」
「本当ですか!?」
浩は大喜びで、前から狙っていた全集の所に飛んでいった。新道と菜穂はそれを見て声を上げて笑い、橋本は『また儲けが減る』とため息をついた。




