2016.11.9 1998年
『まるやまいちば』の入口を入ってすぐ、2階に続いている階段の真ん中で、奈々子と小さな男の子が市場を見下ろしていた。ご飯ものの店が目の前に見える。階段の下にはレトロな休憩室がある。小中学校の同級生の親が何人か、ここで野菜や花を売っている。
「小学校の頃はよく来てた。駄菓子屋もあったし、2階には本屋があって、そこでノートとか鉛筆も買えた。でもなくなっちゃった。万引きが多かったって話。私が小学校の時同級生もやってて先生に怒られてた」
奈々子は下を見ながら言った。
「円山って、ろくな所じゃないんだよね、本当は。変に金持ちの子が多くてさ、ブランド物持ってたり、自分の思い通りにならないとすぐキレるっていうかさ、大人の前だけではいい子で、子供だけになると暴君。付き合うと疲れるんだよね。だから私、友達少なかったな。私の友達、お母さん同士のやっかみといじめで転校したの。大人も加わったいじめ。最悪だった。自分にはどうにもできない。心を病んで転校する子、実は多いんだよ、円山。まわりについていけなくて。私、誰かが転校するたびに思ってた。『あ、あの子はまともだったんだ。ここについていけなかったんだ』って」
「ふーん」
子供が気のない返事をした。
「でも、この市場があるからよかったの。逃げ場なの、ここ。家で嫌なことがあってもここに来れば、駄菓子は10円20円で買えたし、常に大人がいるから危なくないし、子供がいても怒られない。休憩所で勉強してたら、知り合いのおばさんが褒めてくれることもある」
「へぇ」
「──って話を創くんにしたかったの私は!」
奈々子が叫んだ。
「ど〜して今日はあんたが出てくんの!?」
「俺に文句言うなよ」
橋本が奈々子をにらみあげた。
「創が引っ込んで出てこねえんだよ」
「なんで?またひどいこと言われたの?」
「どうでもいいだろそんなのは」
「前から聞きたかったんだけど、あんた達の仕組みってどうなってんの?」
「俺だって知らねえよそんなことは」
橋本が言った。
「なんでさっきからここで止まってるんだよ?2階に行かねえの?」
2人はもうずいぶん長く、階段の踊り場にいた。
「ここから1階がよく見えるし、2階にはなんにもないし」
「なんにもない?」
「本屋がなくなったあと、誰も入らなかったから、ただ、広い空間が放置されてるだけ。見てみる?」
2人は階段を上がった。そこには本当に何もなかった。大きな、体育館くらいの広い広い空間があって、向こうの隅にペットショップのようなものが見える。それだけだった。
「悲しいな。本当に何もない」
橋本は驚いたようだ。
「おかしいよね。中央区のこの場所にこの空きスペース。別な店入れるか、イベントに使うとか、いっそ迷える子供の遊び場にするとかすりゃいいのにっていつも思う」
奈々子はそう言ってから、
「1階に戻ろう」
と言って階段を降り始めた。
「昔はここも栄えてたんだって。それこそ、あんたが生きてた時くらいまでは、違う?」
奈々子が橋本に尋ねた。
「さあ。名前は知ってたけど来たことはなかったから知らねえな。でもうちの近くにも似たような市場があった。そこで親父が買い物してたよ」
「スーパーじゃなく?」
「市場にいる人はみんな、親父の知り合いだったから」
「そう」
2人は1階の暗くて狭い休憩室に入って座った。創成川からここまで長く歩いたので疲れていた。昼間会うのは初めてだ。今日は昼に待ちあわせして、運良く会えた。
「創くんのお母さんって、今日は──」
「出かけてるよ。その話はやめろ」
「あ、そう。そういえば私、言うの忘れてた」
「何だよ?」
「あんたの家に行った。橋本古書店に」
奈々子が思い切って言うと、橋本が急に奈々子の方を向いた。
「店に、髪が赤い子供の写真が飾ってあった。聞いてみたら亡くなった息子だって言ってた。本を買ったら、学生だからって50円まけてくれた」
橋本の表情が悲しげに歪んだかと思うと、急に、気が抜けたように無表情になった。
「あのね」
子供らしい声が出た。
「はしもと、かなしくなったみたい」
創くんが戻ってきた。奈々子は驚いてビクッと震え、落ち着こうと深く息をした。
「ここ、どこ?」
創くんは不安げにあたりを見回した。
「まるやまいちば」
奈々子は上ずった声で言った。
「え〜と、とりあえずそこでごはん買って食べようか」
奈々子はすぐ外にある店に向かった。普段から小銭を貯めておいて本当によかったと思った(そのせいで母や妹にはケチ呼ばわりされているが)。
市場の説明を初めからやり直さなくては。
だけど。
奈々子は思った。
創くんには、円山の陰湿な住民の話はやめて、楽しい駄菓子とか、面白い店の人の思い出話だけにしようと。
この子にこれ以上辛い話を聞かせることはない。




