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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2016年11月

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2016.11.4 1998年

 頭が痛い。母に髪を思い切り引っ張り回されたせいだ。

 奈々子は頭をおさえながら音楽教室に入った。

 母がキレやすいのはいつものことだ。

 問題は、何が原因でキレるかが全くわからないことだ。

 これは妹も同じで、こないだは突然『あんたの全てが気に入らない』『いい子ぶりやがって』と言いながら物を投げつけてきた。自分では真面目なつもりもいい子ぶっているつもりもないが、まわりからはそう見えているらしい。

 今日はシューベルトの『糸を紡ぐグレートヒェン』を練習した。心が重い。今の自分みたいだ。ただし、恋ではなく家族の問題で。

 みのり先生はいつも通り褒めてくれた。ほぼプロに近いと。でもやはり、あのアリアの高い声が出せなければ駄目だ。

 レッスンが終わってからも歌い足りず、5時まで練習しようと空きブースに入ろうとした時、ナギが部屋から出てきた。

「あのガキ、頭おかしいらしいね」

 ニヤニヤと笑いながら言ってきた。

「修二に聞いたよ?幽霊がついてるって言い張ってるんだって?」

「幽霊は本当にいるの!あんたに言ってもわからないとは思ってたけど」

 奈々子はナギをにらみつけた。

「ふうん。で、それ、どんな奴?」

「だいぶ前に死んだ古本屋の息子。あんたとは相性よくないよ。クラシックが大嫌いで私が歌うと引っ込んじゃうから」

「なら、あんたとも相性最悪でしょ?かまうのやめたら?」

「私はクラシックだけの人間じゃないし、本もホップスも好きですから!」

 奈々子は練習をやめ、帰ることにした。しかし、音楽教室を出て少し歩いた所で、後ろからナギがついてきていることに気がついた。

「ついて来ないでくれる?」

「お〜怖い怖い」

 ナギは手を前に出しておどけた。

「いいじゃん。一回会わせてよそのガキに。俺も幽霊が本当にいるか見てみたい」

「あんたがいると怖がって来ないかもしれない。前もそうだった。だから来ないでくれる?」

 奈々子はきっぱりと言って歩き出した。でも、振り返らなくてもわかった。ナギがまた後ろからぴったりとくっついて来ていることが。一体何を考えているのだろう?

 道は寒い。冬が近づいている。奈々子は不安だった。これ以上寒くなったら、創くんはどうなるんだろう。そもそも今までどうやって生きてきたのだろう?想像しようとすると、怖くておぞましいことばかり頭に浮かぶ。

 4時50分。創成川に着いた。人の姿はない。当たり前だ。風が強くて寒い。

「直接狸小路に行ってくれればいいけど」

 奈々子はつぶやいた。この風の中に子供を立たせておきたくない。

「あんたも修二もわかんない奴だね」

 ナギが言った。

「そんなことしたってムダだってわかんない?どーせいつかは親んとこに戻るか、どっかの施設にでも入って一生終わるかでしょ?今だけ助けて何になる?」

「だからあんたに言ってもわかんないって」

 奈々子は冷ややかに言った。

「理由はなくてもほっとけないこと、あるでしょ?」

「ないね」

 ナギは断言した。

「じゃあんた今なんでここにいるの?」

「単なる好奇心」

 ナギは奈々子の隣に来て、フェンスに手をかけた。細くて長い指。ピアノ以外ではろくなことに使ってなさそうな、きれいな手。

「そろそろ手袋いるな」

 ナギがフェンスから手を離した。冷たかったようだ。冬が近づいてくる。貧しいものや弱いものの命を容赦なく奪っていく寒さが、迫ってくる。

 予想通り、創くんは来なかった。しかし、狸小路に行くと、歌っている修二のすぐ近くに小さな人影があった。歌に聞き入っていて、こちらに気づいていないようだ。

「確かにこの時間にあんなガキうろついてたら危ない」

 ナギがつぶやいた。

「通報しちゃおっかな」

「したら殺すよ?」

 奈々子がナギをにらんだ。歌が終わるまで、2人はそこにいた。修二が音響機器を片付け始めてから近づいた。創くんが振り向いて奈々子を見た。しかし、隣にナギがいることに気づいたとたん、修二に走り寄って足元にしがみついた。

「やっぱり怖がられてるじゃんあんた」

 奈々子がナギに言った。

「別に俺何もしてないんだけど」

「人柄が伝わるんだって」

「あんた本当に失礼だね」

「お前らケンカすんなよ」

 修二がたしなめた。4人はユエのアパートに向かったが、その間、創くんは修二から離れようとせず、ナギと奈々子の方を見なかった。どうしてこんなに怖がるんだろう?奈々子は不思議に思った。確かにナギは性格が悪いし嫌味だしとにかく嫌な奴だが、ぱっと見はきれいで、そんなに怯える理由はないような気がした。

 アパートに着くと、創くんは疲れていたのかすぐに眠ってしまった。修二と奈々子とナギは3人でテーブルについた。

「あんたら、人には説教するくせに自分らもこんなとこにいんの?呆れるなもう」

 ナギが言った。

「しかも行き場のないガキまで拾ってさ、どーすんの?」

「別にどうもしない。その場その場で対応するだけだ」

 修二が言いながらハムサンドを出した。本当に手際が良い。

「それより、セッションする気になってくれた?」

 修二が聞くと、

「まーね」

 ナギが曖昧に笑った。

「ほんとにやるの?2人で?」

 奈々子が尋ねた。

「3人で」

 修二が言った。ナギが眉をひそめた。

「俺のギターとナギのピアノと、歌は奈々子、お前がやれ」

「えっ?」

「あれ?ちょっと待って」

 ナギが慌てて口を挟んだ。

「俺は修二の歌声が気に入ったから、ここにわざわざ来てやったんだけど」

「何その偉そうな言い方」

 奈々子が嫌な顔をした。

「いや、奈々子の方が歌声はいい。お前もわかってるだろ?」

 修二が言った。ナギは奈々子の方を見た。

 じーっと見た。

「何?文句なら聞くよ?」

 奈々子は戦う体勢で言った。

「いや、別に文句はない」

 ナギが言うと、修二は笑い、奈々子は驚いた。

「それじゃ決まりな。スタジオ押さえとく」

 修二が電話の横のメモに何か書き込み始めた。ナギはハムサンドに手を伸ばした。

「創くんの分、取っといてよね」

 奈々子はナギをにらんだ。

「あんた何なの?あのガキのママか何か?」

「ガキガキ言うのもやめてくんない?」

「ガキはガキでしょ?」

「だからケンカすんなって」

 修二が戻ってきた。

「お前ら本当に似てるよな」

「似てない!」

「似てねえって!」

 2人同時に叫び、その声で創くんが起きてしまった。

 いや、

「お前らうるせえって」

 その声は創くんではなかった。ナギが変な目で『ガキ』を見た。

「あ、もしかして橋本が起きちゃった?」

 奈々子が言った。久しぶりだなと思いながら。

「奈々子、ちょっと来い」

 創くん、いや、橋本は、布団から起き上がると、奈々子の制服をつかみ、アパートのドアの外まで引っ張っていった。

「何してんの?外寒いじゃん」

「あの金髪のヤロー、初島と一緒にいた奴だぞ!」

 橋本が厳しい声で言った。

「へ?どっち?」

 奈々子は困った。ナギも修二もどちらも金髪だからだ。

「お前と一緒に来た軽い奴だよ!だから創が怖がるんだよ!」

「ナギが?創くんの母親と?」

 奈々子は信じられなかった。

「なんで?」

「俺が聞きてえよそれは。気をつけろ。あいつろくな奴じゃねえぞ」

「ろくな奴じゃないのはよ〜く知ってるけど」

「だったら付き合うのやめろよな」

「付き合ってない。絶対付き合ってない」

 奈々子は心底嫌な顔で首を横に振った。

「何ムダ話してんの?」

 白けた顔のナギが出てきた。そして意地悪くこう言った。

「早く戻らないと、ハムサンド食べちゃうよ?」

 橋本が走って中に戻っていった。奈々子は悲しくなってきた。きっとまた食事を与えられなかったに違いない。

「ナギ」

 奈々子は怖い顔でナギを手招きした。

「聞かれても知らないよ?付き合ってるおばさんなら星の数ほどいるから。その中の一人でしょ?たまたま当たっただけだって」

「あんたマジで何やってんの!?」

 奈々子が怒鳴った。

「こんな時間に売春婦の家にいる女子高生に文句言われる筋合いないね。とっとと家に帰れよ。この真面目気違いめ」

 ナギは冷たい声と目つきで言いながら中に戻っていった。奈々子も中に戻った。寒かったし、家にはまだ帰りたくなかったからだ。修二は今作っている曲の話を嬉しそうにしていたが、奈々子とナギは黙り込み、橋本は布団にもぐったまま動かなかった。今休んでおかないと、次はどうなるかわからないからだ。






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