2016.11.1 火曜日 研究所
昼過ぎ。
久方創は、ソファーの上に膝を立てて座り、かま猫を抱きしめながら震えていた。午前中、橋本が与儀あさみに会うために病院へ行き、つい先程帰ってきて自分に戻ったところだった。かま猫はやや迷惑そうに久方を見つつ、逃げもせずにそこにいた。ドアが開けっ放しで、シュネーが廊下を走っているのと、結城がモップを振り回しているのがたまに見えた。ポット君は何かを心配するような細い楕円形の目を表示し、離れた所から久方と猫の様子を見ていた。
怖い。
久方は小さな声でつぶやいた。
怖いよ。
もちろん、かま猫はその言葉には反応しない。しばらくじっとしていると震えは治まってきた。でも、不安は消えなかった。
久方は今日、ずっと意識があって、橋本や付き添いの平岸ママ、あさみの3人をじっと見ていた。あさみが回復する見込みはなさそうだった。入院もどれだけ長くなるかわからない。平岸ママは口数が少なかった。橋本は何も言えなくなったあさみに、優しく話しかけていた。主に最近起きたこととか、昔起きたこととかを。何も言わないあさみの目元が、話を聞くたびに優しげに緩んだ。ちゃんと聞こえているのだ。橋本の言うことは。
そうだ。
自分が欲しいものはいつだって他人が持ってる。
特にこいつが。
強さも、
愛情も、
誰かと心からわかりあうことも。
久方は横向きに倒れ、かま猫が腕をすり抜けて廊下に出ていった。結城が叫び、走り回る足音がうるさく響いてきた。
愛。
やっぱりそうなのか。
久方は自分が嫌いだ。昔からそうだ。自分では何も手に入れることが出来ないのがわかっているからだ。その手に入らないものの最たるもの、それが、絶対的な愛情だった。普通の人なら親からもらっているもの、生命への絶対的信頼のようなものだ。自分にはそれが徹底的に欠けている。そして、喉から手が出るほどそれがほしくてたまらない。でも、絶対に手に入らないのだ。
橋本は、それを持っているのだ。
しかも、久方以上に何も持っていない、自分自身しか持っていないにもかかわらず、それだけで人を惹きつけることが出来る。人の役に立っている。そういう力を持っているのだ。
何を子供みたいにすねてるんだ?
掃除を手伝え!
結城がドアの前で怒鳴った。
猫は細菌じゃない!
久方は間抜けな声で叫んだ。起き上がり、パソコンに向かった。何かしていないと本当に自分を見失いそうだ。不幸中の幸いで、今日は知り合いの学者から依頼がたくさん来ていた。これだって本当は同情して回してくれているだけで、本当はみんな自分で出来るはずだが、もうそんなことを考えている余裕はない。
昔からこうだった。一度自分を『別人』と比べてしまうと、自分には何もないことに嫌でも気付かされる。欠けているものは奴が奪ったのだとずっと思っていた。でも、そうではない。
元から奴はそれを持っていて、
元から自分は持っていない。
それだけのことだったのだ。しかし、それだけのことが、久方にとっては最も痛いことだった。
もう言い逃れは出来ない。
ダメな自分を幽霊のせいには出来ない。
自分がダメなのは、そのまま、自分がダメだからだ。
それが真実なのだ。
所長、橋本を毎日病院に行かせてるんですか?
そのうち所長が壊れちゃいますよ?
学校帰りに来た早紀は、本当に心配しているようだった。
僕は元から壊れてるんだよ。
と言いたくなったが、
でも最近、体の調子はいいんだよ?
と答えた。それも事実ではあった。自分に戻った直後は気分が悪い。でも、その後の午後から夜にかけては、不思議と体が軽い。
理由はもうわかっていた。
与儀あさみだ。
あの人が橋本に与えた力が体に残っていて、
久方も支えているのだ。
奇妙すぎるが、久方にはそうとしか思えなかった。早紀に話してももちろん何のことだかわからないようだった。
でもその人、寝たきりでもう話せないんですよね。
なんか、ものすごく不謹慎な気がするんですけど。
久方もそれは思っていた。しかし、思うことと感じることが最近よく食い違う。当たり前だ。感じているのは橋本で、考えることしか出来ないのが自分だからだ。
雪が降ってきたので、冷やしておいた透明な板とルーペを持って雪の結晶を観察に行った。早紀はスマホで雪の結晶を撮ろうとしていたが、なかなかピントが合わないようだ。久方は、手袋についた結晶に目をとめた。信じられないほどきれいな結晶がそこにあった。早紀に見せようとしたが、手の熱で半分くらい溶けてしまっていた。早紀は久方のコートについた雪の結晶を写真に撮ろうとしたが、やはりズームが上手くいかないようだ。レンズを買おうかなと言いながら雪景色の写真を撮っていた。母親と友達に送るそうだ。
早紀の母親。あの人も、
橋本のことを思い出して泣き叫んでいたっけ。
久方は思い出した。そういえば、なぜ死んだのかまだ聞いていない。自殺ではなさそうだと思った。こんなに人を惹きつける力のある奴が自殺なんかするだろうか。
やはりあの人が殺したに違いない。
そう考えると、久方の心は重くなった。
いつまで僕は、あの人につきまとわれるのだろう?




