2016.10.30 日曜日 研究所 秋浜祭2日目
朝。
久方は起き上がろうか、それともこのまま永遠の眠りにつこうか迷っていた。しかし、6時ちょうどの『幻想即興曲』の轟音に叩き起こされ、着替えを持って1階に逃げた。こころなしか、いつもよりさらに乱暴な弾き方に聴こえる。
早紀は早く起きたらしい。スマホを見ると、既に『今日も祭りに行きますか?』と言ってきていた。久方はどう答えようか1時間くらい悩んだ。正直言って行きたくない。昨日は疲れ果ててしまい、夕食も食べずに7時頃寝て、そのまま起きなかった。しかし、早紀と出歩く機会はあまりない。逃したくない。
とりあえず行ってみて、具合悪くなったら帰るよ。
という返事がやっと出来た頃、結城が2階から降りてきて、キッチンで食パンを焼き始めた。出てきたトーストは、やはりひどく焦げていた。
数時間後、結城がバカみたいにコスプレの女の子を写真におさめている間、久方は強力なノイズキャンセリングのヘッドホンをして、ぼんやり通りを眺めていた。
ああ、ここは本来何もない、人もいない真っ直ぐな道で、向こうには海があって、両側の山や草原は雪できらめいているはずなのに。
今、雪が舞う中には、季節はずれの肌むき出しのコスプレをした女の子ばかり、自然をあざ笑うかのように闊歩している。今日はステージでオタク達のイベントがあるらしく、昨日よりもコスプレ率がさらに上がっていた。
所長〜!
黒猫の杖を持った魔女が走って来た。後ろにミイラ:佐加がいることに気づいて、久方の笑いは引きつった。
あ〜!所長!おはよ〜!
今日寒くね?今年一番寒いんだって〜!!
佐加は元気に言ってから、知っている人を見つけて走り去った。そうだ。今日はもう冬だ。しかも天気が良い。晴れの光の中に雪が舞っていて、雪の結晶を観察するにはちょうどいい風情のある日のはずだったのだ。
奈良崎が、
『杉浦がステージに立ったら逃げろ』
と言ってましたよ。
詩吟の会が現れる合図だそうです。
早紀が敵の話をするような調子で言った。久方は苦笑いした。道を歩いている間、光の中から白いものがひらひらと落ちてきた。久方はつかもうとして手を動かした。
とうとう雪が降りましたねえ。
早紀が前を向いたままつぶやいた。早紀の顔も雪と光の中できらめいて見えた。
ヨギナミがいるレストランのブースに近づくと、ホットワインを売っていた。早紀はココアを頼んでいた。ヨギナミは奥でスマコンと話していた。スマコンは真っ白なコートに、白いロシア帽をかぶっていた。
あら所長さん。いらしてたのね。
スマコンが久方を見て、優雅に微笑んだ。
今日は幽霊達の気配がないわね。
昨日の騒ぎを反省しているのかしら。
早紀が唇を噛みしめたのが、久方にはわかった。
お母さん大丈夫?
久方はヨギナミに尋ねた。
意識はあるけど、まだ話は出来ないって。
ヨギナミは明るく言ってから、他の客に呼ばれてその場を離れた。
通りは活気に溢れているわね。
クリエイティブなオーラと、浮ついた遊びの気が入り混じって混沌としているわ。
久方さん、疲れているのではなくて?
スマコンは『何でもお見通しよ』という目をしていた。
そうだね。正直言って、もう少し普通の祭りだったらよかったなという気はするよ。
久方が答えると、
あかねはきっと、
『これが普通の祭りだ』って言いますよ。
と早紀が言った。
あの格好で?
久方が聞いた。
あの格好で。
早紀は真面目な顔で答えた。
コスプレはいいのですけれど節度というものも必要ね。
そういえば2人とも、ワンダーウーマンに化けた後期高齢者のおばあさんを見かけませんでした?うちの松枝なのよ。張り切りすぎて仕事を忘れているの。
困ったものだわ。
久方と早紀が反応に困っていると、スマコンは、
それでは、ごきげんよう。
と言って立ち上がり、上品に歩いて行った。
サキ〜!射撃で勝負しよーぜ!!
うるさいミイラが来て、早紀に向かって手を振った。早紀はちらっと久方を見た。『行ってきなよ』と久方は言った。早紀は元気よく駆け出していった。『え?保坂いるの?勝てるわけないじゃん』と文句を言う声が聞こえた。
所長。
ヨギナミが近づいてきた。
こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、
少しためらってから、
おっさんにね、もっと病院に来てほしいの。
と言った。
お母さん、もう病院から出られないかもしれないの。
話すことも出来ないかもしれないの。
言いながら、目に涙が溢れてきた。
相談してみるよ。
久方はそれしか言えなかった。ヨギナミは何かを振り切るようにすぐ立ち去った。
楽しそうに道を歩く人々が見える。
遠くから誰かの話し声がする。
久方の感覚が宙に浮き始めた。
僕はここで何をしているんだろう。
所長〜!
早紀の声で我に返った。かわいい魔女が、小さなオセロの箱を持って戻って来た。
勝負は負けました。
でもこれは自分で撃ち落としましたよ!
お〜。
久方は空元気を振り絞って拍手した。
車に戻ってこれで勝負しませんか?
どうせおバカな助手は、
オタクの女の子のステージまで帰りたがらないでしょ?
早紀はちょっとすねているようだった。久方は笑いながら、結城の頭をオセロの板でぶん殴りたいと思った。
平岸パパは今日も車で日経を読んでいた。その後ろで、久方と早紀はオセロを広げて遊んだ。
白と黒で、かま猫とシュネーみたいですよね。
と早紀は言い、黒を置くたびに、
ニャー!!
と叫んだ。かわいいが、うるさかった。声に気を取られたせいか、3回戦って、全て早紀が勝った。
所長、わざと負けてませんか?
早紀に疑われたが、断じてそんなことはない。猫の鳴き声に集中力を乱されただけだ。
何してんのお前ら。
結城が2人を探しに来た。
結城さんもやりますか?
やだよそんなの。祭りの日に何してんだよお前ら。
久方ももっと女の子に目を向けろや。
女の子なら目の前にいるじゃないか、と久方は言いたくなったが黙っていた。平岸パパが結城を知り合いの店に誘い、早紀と久方もついていった。浜の出店で、焼き魚や貝を出している所だった。
うわぁ、酒に合いそうなもんばっか。
車がなきゃ飲みまくるんだけどな〜!
結城は楽しそうだった。久方は音がしんどくなってきた。ノイズキャンセルでも近くの声や音は防げない。もっと強い防音のものを用意しておくんだった。
あ!あんた!昨日の魔女だろ!
貝を焼いていたおじさんが早紀を見て叫んだ。
セクシーキャットに倒されてた子だよね?
早紀が手に取ろうとしていたホタテを落とした。
いやぁ〜よく言ってくれたと思ったんだよ。あの子の服装、おかしいもんなあ。公共の場でする格好じゃないよ。
いやあ、あんた、災難だったね。
まわりの大人がみんなうなずいたり笑ったりした。おじさんは早紀に大きなホッケを一匹おごってくれた。早紀はやけ食いのように勢いよくそれを食べた。久方は全く食欲がわかなかったが『ホタテの貝殻持って帰りたいなあ』と思った。聞いてみたら『いいよ』と言われた。
後で奈々子に会ったら、全力で殺します。
早紀が怒りに満ちた目でつぶやいた。
サキ君、奈々子さんはもう死んでるって。
久方が言った。
くそっ!なんで死んでるんだ!殺したいのに!
早紀が変な声で叫んだ。
なにを訳のわからんことを言ってんだよ。
結城が呆れた。スピーカーの音で『もうすぐステージでイベントが始まります』というアナウンスが流れた。結城は久方に車の鍵を投げつけると、飛び上がるようにして走って行った。
アイドル殺したい。
早紀の殺気が変な方向に向いてきた。
サキ君、車に戻って落ち着こうか。
僕も音に疲れてきた。
久方は慌てて、早紀と一緒に結城の車に向かった。後部座席で、2人はしばらく無言だった。早紀はスマホで誰かとやり取りをしているようだった。久方は、さっきヨギナミに言われたことを考えていた。
『もっと病院に来てほしい』
それは、久方が自分でいられる時間を削ってほしいということだ。
求められているのは、僕じゃない。
珍しい。リオがハロウィンに一人でいるなんて。
早紀が小声でつぶやいた。友達のSNSをチェックしているようだ。
パパと別れたんだ。
所長。東京の友達が振られて一人でいるようなので、ちょっと通話してきます。
早紀が外に出ていった。
お前、疲れてるだろ。
橋本の声がした。
何だよ、一人で考えさせてよ。
久方は言いながら頭を振った。
俺のことは考えなくていい。
お前のことなんか考えてない!
久方は強く言い返した。橋本はそれ以上何も言ってこなかった。遠くから微かにステージの音楽と歓声が聞こえる。寒くなってきたが、車の暖房の入れ方がわからない。ヨギナミの涙でいっぱいの目や、ベッドで眠っている与儀あさみの姿がちらつく。全て体に記憶として残っている。久方本人の記憶を凌駕してしまうほど、その2人にまとわりつく感情は、大きかった。
どうしたらいいんだ。
早紀が通話を終えて戻って来た時、久方は後部座席に横になって眠っていた。早紀は祭りの会場に戻ってステージに向かって走り、浮かれて女の子を見ている結城を杖で思いっきり叩くと、すぐに車に戻るように命令した。戻って来た結城はすぐに車を出して研究所に戻り、久方をベッドに寝かせた。




