2016.10.27 木曜日 サキの日記
研究所では、二階からガーシュインの曲が聴こえた。たどたどしい音。保坂がまた新しい曲を練習し始めた。学校サボってるのにここには来てるらしい。
Swaneeだね。
所長がまた曲名をつぶやいた。それから、夢で見た古書店の話をしてくれた。橋本の父親が経営している店で、一人の女の子をめぐって橋本と新道が話してる。それを初島が見ている。
橋本は好きになれないけど、友達の家が古本屋だったらめっちゃ楽しそう。毎日通ってしまいそうだ。
たぶん新道先生、気づいたんじゃない?
橋本も根岸っていう子のことを気にしているって。
所長は笑いながら言った。今日はずっとニコニコしていた。調子がいいらしく、散歩中も足取りが軽かった。言っちゃいけないのかもしれないけど、以前の、森の妖精のような感じが戻っているみたいだった。ただし、帰って来たら疲れてソファーに寝ちゃったけど。
眠っている所長の写真を撮っていたら保坂が来て、
何してんの新橋?
と呆れた顔をした。
学校来てないけど大丈夫って聞いたら、
明日は行く。さっき河合先生ここに来たべ。会った?
と言われた。心配して探しに来たらしい。
ヨギナミから何か聞いてる?
と聞かれたので、お母さんが倒れて入院したよねと言った。あと、不倫訴訟の話も聞いてると伝えた。
それは俺なんとかしたいんだけど、
なんせ敵が強すぎて。狂ってるし。
とうとう親を敵呼ばわりし始めた。
法律がやな奴の味方してるべ?
俺一応弁護士とかに電話かけまくって金払って聞いてみたんだけど、ダメだ。どいつもこいつも。
保坂は言いながら出て行った。少ししてから、ピアノの音がした。結城さんだ。
黒鍵だ。
所長がむくっと起き上がった。
人が寝ようと思ったら、
こういうけたたましい曲を弾き始めるんだから。
それから2人で裏の割れ目を見に行った。もう気温が10度を下回っているので、所長は猫達を室内に入れておきたいと思ったらしい。でも、ここ鍵かけてないし、あちこちに猫が通れる抜け道があるらしく、すぐにいなくなってしまうそうだ。
裏にはシュネーだけがいた。所長が呼んだら出て来てキャットフードを食べた。前よりは人に慣れたらしい。かま猫はいなかった。アジサイの所にも行ってみたけど見当たらなかった。
僕がいなくなったら、猫達はどうなるんだろう?
所長がつぶやいた。
不吉なことを言わないでくださいよ、所長。
猫は気ままだから放っといても大丈夫ですが、
私が悲しいし、結城さんがキレるし、
みんな悲しみますよ。
そうだね。
2人で部屋に戻ったら、あかねがいて『夕飯!』と叫んだ。いつもより時間早いなと思ったら、平岸ママがヨギナミのお母さんの付き添いに行っているので、今日は平岸パパと一緒に、別な町のフレンチレストランに行くと言われた。行ってみたら、蕗のスープとか、シュークルートとか、食べ慣れない料理がいろいろ出た。豚のハスカップ煮まであった。けっこういける。
高条も連れて来ればグループ揃ったのよね。
と、あかねが珍しく他人を気づかう発言をし、料理の写真を撮りまくっていた。またマンガのネタにするんだろう。
私が考えていたのはヨギナミのことだった。今も病院で母親に付き添っているのだろうか。それともバイトか、家に帰れたのか。
お母さんが入院するってどんな感じ?と聞いてみたかったけど、失礼すぎて聞けないと思った。でも私はそれが気になっていた。うちの40代の娘が、例えばロケ中に倒れたりしたらどうしたらいいのか、私は全くわからなかった。たぶん救急車で病院に運ばれて入院する。その後は?私は母と離れすぎていて、もはや何が好きなのか、何をどうしてほしいと思っているのか、全く知らない。
帰りの車内で『友達のお母さんが入院した』とLINEしてみた。
お花送ってあげる。お菓子のほうがいい?
食事制限は?
と聞いてきた。変なスイッチを押してしまったかもしれないと思いつつ、お花がいいと思うと答えた。すぐ送ると返事が来た。
今日は奈々子も新道も出てこなかった。ただ、隣の部屋から修平がけっこう大きな声で何か言っているのが聞こえてきた。親か新道とケンカしているのか。こういう時こそ奈々子のストーキング活動の機会だと思うのに、今日は全く気配がしない。声も聞こえない。
私はBBCを聴いて、自分の進路が決まってないことを思い出した。今年中にどこの大学受けるか決めないといけないのに。文学、哲学、シナリオ、演劇。ずっと机に向かったり、パソコンを見つめ続けるのは向いてない気がする。かといって人に会って活発に活動するのも何か違う。SNSで一日中発信し続けるような人にはなれそうもないし、なりたくもない。もっとゆっくりしたい。だけど、じっとしているのは無理だ。ちょうどいい所にあるのが何なのかがわからない。
それに、進路よりも『気が使える大人』になるほうが大事なんじゃないかという気がしている。劇団の人も所長も、結城さんですら、私を子供だと思って気を使ってくれていた。それがわかってきた。対等になるには、私も大人にならなくてはいけないのだ。




