2016.10.21 金曜日 研究所
6時までは待つことにしてる。
まさか、その言葉を自分が実践することになるとは夢にも思わなかった。といっても、夕方ではなく朝の6時だが。
結城は時計をじっと見つめ、6時になった瞬間、勢いよく鍵盤をたたき始めた。
シューマンのクライスレリアーナだ。
久方創は1階に逃げ、ポット君からコーヒーを受け取り、邪悪なピアノと、外から聞こえてくる風の音におののいていた。今日も天気が悪い。これから冬になると、外に出るのも危ない天候が多くなる。今年は上手くやり過ごせるだろうか。いや、今までだって決して上手くやり過ごせていたわけではないが。しかし今年はいつもと違う。
いいかげん朝のピアノはやめろって言えよ。
橋本の声が聞こえた。
なんでクラシック嫌いなの?
久方は聞いた。
うるさいだけだろこんなのは。
うんざりした声が返ってきた。
こういう風に『別人』と共存する日が来るなんてあの頃は考えもしなかった。ただただ拒絶しようとしていた。
今、早紀が拒絶の体制に入ってしまっている。
主に結城のせいで。
久方は心配していた。どうしていいか本当にわからなかった。まるで橋本とあさみさんの問題みたいだ。そういえばあの人もしばらく見ていない。どうしているんだろう。
あさみのことは考えなくていいって。
橋本の声がまた聞こえた。強風で窓が揺れた。邪悪なピアノはまだ続いている。本当に、結城は何がしたいのか。それもわからない。奈々子さんを殺した犯人──あの恐ろしい人──が来たら捕まえるつもりなのだろうか。警察に捕まえてもらえるような証拠もないのに。殺すつもりか?
窓からパチパチと音がし始めた。あられだ。今年の初雪は荒々しすぎて風情も何もなかった。この乱暴な降り方が今日も続くのか。考えると憂鬱になってくるので、久方はパソコンに向かうことにした。いつも通りの作業をこなしていたほうが楽だからだ。
今日は早紀が来ない。あらかじめ『今日は外に出ないほうがいい』と話し合っていた。風が強すぎて外に出るのが危ないというのもあるが、原因はもちろん結城だ。しかも今、奴は狂ったようにあのスカルボを弾いている。今日は邪悪な曲を聴く日なのか。魔物のような音楽と廃墟に閉じ込められ、久方はぼんやりと宙を見た。
僕は、自分で、自分の人生を破壊してきた。
久方はそう気づいていた。そもそもの始まりが狂った母親だったにせよ、現実に起きていることを否定し続けてきたのは自分なのだ。ずっと向き合うことから逃げていた。その年月の長さと無駄にした時間に呆然とした。
でももう、仕方がない。過ぎたことは。
神戸に引き取られた時、彼は怯えきっていた。
育ての親は自分を殴ったり蹴ったりしないし、暴言で存在を否定したりしない。そんな当たり前のことを理解するのに5年以上かかった。他人を怖がるのはなかなか治らなかった。特に女性が怖かった。それは今でも治っているとは言えない。
なぜそうなってしまったか、今はわかっている。
そう、
どうしようもなかったんだ。
いろいろなことがわかった今となっては、もう先に進まなくてはならない。どうしたら進めるのかは今のところわからないが。
ピアノの音が止まった。久方はしばし天井を見つめてからゆっくりと立ち上がり、2階へ向かった。結城は楽譜を見ていた。
ねえ。
久方が話しかけると、結城は顔を上げた。
あの人を見つけたら、どうする気だったの?
奈々子を殺したのはなぜか聞こうと思ってた。
結城が答えた。
でもまあ、それは、もう高谷が聞き出したようだけど。
苦しめるため。
口にするだけで胸が痛む。
久方は目を伏せて顔をゆがめた。
狂人だな。そこまで行くともう誰にも手がつけられない。こうなったら、
どうするの?
殺すしかないよね。
結城が言い、久方は引きつった顔をした。
冗談だって。
結城が笑った。
とりあえず今出来るのは、
次出てくるまで正気を保ってることだな。
お前より新橋と高谷の方が危なそうだけどな、今は。
サキ君をこれ以上苦しめたくない。
久方は言った。
だけど、奈々子さんはお前を必要としてる気がする。
その言葉を聞いて、結城の顔から笑いが消えた。
だから難しいんだよ。あさみさんのことだってそうだ。
どうしたらいいか全くわからない。
強い風が吹き、窓が音を立てて揺れた。氷のような雪つぶての当たる音も聞こえてきた。
できるだけ、今まで通りに接したほうがいいと思うよ。
結城が言った。
ここは新橋にとっては、学校からも家からもはずれた安全地帯だった。そこに保坂や奈々子や橋本が入ってきて、それで新橋は混乱してるんじゃない?
秘密基地をもとに戻して維持するんだよ。
俺らに出来ることなんてそんなもんだって。
あとは本人の問題だから。
自分で向き合ってもらうしかないな。
わかった。
久方は1階に戻った。気晴らしに牧野植物図鑑を引っ張り出し、その見事な細密画を眺めた。昔から自然や植物は好きだったが、なぜか、個々の植物の名前を覚えるのは苦手だった。木は木だし、花は花、森は森。そんな風に大雑把に眺めて愛おしむのが好きだった。学者にはもともと向いていなかったのかもしれない。
ドイツであんなことが起きなければ──いや、起きなくてもきっと、あの関係はダメになっていた。今ならわかる。だけどあの時はどうしても耐えられなかった。
パステル画の彼女を見る。これを描かせてもらった時のことはよく覚えている。彼女が目の前にいて、目を離すことが出来なくて、描くのにすごく苦労した。彼女はそんな久方を見て笑っていた。ただ、微笑んでいた。
天気が悪くなるたびに、この絵を眺めている。
久方はもう絵を片付けてしまおうかと思った。額縁の端に手をかけ、止まり、やはり手を引っ込めた。それから、いつものカウンター席に座り、雪混じりの雨が降っている外をじっと見つめた。
私ってやっぱり変ですか?
早紀からだ。もう何度もこの質問を送ってきている。そのたびに、そんなことないと答えている。人に構われたいと思うのは全く変なことではない。度が過ぎると迷惑になるかもしれないが。
マリリン・モンローは、
どうしたら救われたんでしょうね。
変化球が飛んできた。
リオと話してたんですけど、それがわかれば、
生まれつき孤独な人を救う方法がわかるような気がするんです。
やっぱり家族とか友達なのかなあ。
それとも自尊心?
質問を送りながら自分で考えているようだ。
一人でいられるのも大事ってよく言うよね。
いろんな人が。
久方はそう返した。
言いますねえ。いかにも強そうな人が。
そこまで強くなれないから聞いてるんだと言いたいですよ。
夕食に行きます、でやり取りは終わった。
強くなれないから。
そうだ。
僕だって強くなったわけじゃない。
強いふりが上手くなっただけなんだ。
久方は思った。早紀は気づかなかっただろう。昨日久方が平岸家に行った時、緊張が強すぎてしばらく震えていたことを。話している間もずっと不安を感じていたことも。昔のことを聞かれた時、恐怖で叫びそうになったことも。帰ってから慣れない場所に疲れすぎて倒れたことも。
そう、そんなことは知らなくていい。
早紀を守らなくてはならない。
そのためなら何だってやってやる。
それしかないんだ。




