2016.10.19 水曜日 サキの日記
研究所で奈々子に乗っ取られた。
今日は最悪だ。
とりあえず起きた順に書こうと思う。
今日のは女のヌードはないからな。
音楽の時間、今野先生が私を見て言った。奈々子のせい。今日は『ルサルカ』というドヴォルザークのオペラを見た。今野先生は本当にやる気がない。
始めから水の精は枕投げしてるし、妖精のお父さんはスーツを着たただのおじさんだし、中途半端に現代的な舞台装置や衣装が気に入らなかった。水の精と王子様の恋なのに、王子様が心変わりするのが早すぎて、幸せそうな場面はほんの少し。あとはずっと浮気を嘆いてる。
『いかに愛そうと、人の心をとらえ続けることはできない』
と父親が歌う。絶望した娘も、
『生きることも死ぬこともできない』
と歌う。
今野先生、生徒に見せる作品もう少し考えませんか?
モーツァルトかビゼーあたりにしませんか?
まだ前半しか見てないけど、これ以上続きを見たいとも思えない。修平も、あの杉浦も、今日は何も言わなかった。
ルサルカって、ラ・ルーナって曲が入ってなかった?
サラ・ブライトマンが歌うのを聴いたことがある。
所長が言って、そのサラという人の曲をかけてくれた。学校で見たオペラより少し子供っぽい声で、言語も違うように聞こえた。
奈々子さんは出てこなかったんだね?
実は僕、話してみたいと思ってたんだけど。
頭の中でまた、何かがパキッと割れる音がした。
サキ君が嫌なのはわかるけど、きっと僕らが知らないことを何か聞いてるはずなんだよ。橋本か、新道先生から。
それに、僕の小さい頃の話も聞きたいし。
無理だと思います。
私はそう言って立ち上がり、そのまま帰ろうとした。
その時だった。
天井から、あの曲が響いてきた。
ラヴェルのトッカータ。
視界がぐらっと揺れたかと思うと、体が浮くような感じがした。
すぐわかった。
乗っ取られたって。
奈々子に。
奈々子は迷わずに結城さんの部屋へ直行し、ドアをバン!と開けると、
あんた一体何やってんの!?
と、怒鳴った。私の声で。
創くんにラヴェル弾くなって言われたでしょ!?
何考えてんの!?
結城さんはぎょっとした顔で手を止めた。しばらく私、いや、奈々子と結城さんは無言でにらみ合っていた。奈々子は本気で怒っているようだ。体の感じ方でわかった。
お前こそ、ここで何をしてる?
結城さんが、聞いたことがないくらい低くて重い声を発した。
新橋がここを見つけたのもお前のせいか?
違う。それは偶然。私も本当に驚いた。
まさかこんな所に創くんがいて、
しかもあんたが一緒だなんてね、ナギ!
その呼び方はやめろ。
じゃあ結城さん、お聞きしますけど、
なんで創くんと一緒にいるんですか?
奈々子が嫌味な言い方をした。
お前を殺したのは初島だな?
結城さんが言った。私の体がビクッと震えた。
そうよ、私は、
言いながら涙が溢れてきた。
私は──。
泣きながら崩れ落ちた。
その瞬間、私は私に戻っていた。
でも泣くのは止まらない。奈々子が、また、殺された時の恐怖と無念を、私の体に残していった。私は声を上げて泣いた。結城さんが近寄ってきてしゃがみ、私を抱き寄せた。たぶん奈々子と間違えて。
いや、もう何でもいい。
結城さんが私を抱きしめてる。
すごく暖かくて気持ちいい。
私はしばらく結城さんの胸に顔をくっつけたまま目を閉じていた。
幸せだった、すごく。
サキ君。
いつの間にか所長が2階に来ていた。その声と同時に、結城さんが私からぱっと離れた。悲しい。
大丈夫?下に平岸さんが呼びに来てるけど。
もう夕食の時間になっていた。私は『ごめんなさい』とだけ言って、1階にいたあかねと一緒に平岸家に帰った。
今度一緒に札幌行くでしょ?
北海道神宮でお祓いしてもらったら?
とあかねは言った。たぶん効かないけど、行くのは悪くないと思った。夕食のときその話したら修平が、
結城、わざとやってるな。
と言った。そうなんだろうか。
奈々子を呼び出すために?
私は?
私はどうでもいいの?
こんなの辛すぎる。




